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三、私雨 三

 目の前におにぎりを出されたら――俺の手は自然とそれを手にとってしまった。 「頂きます」 「どうぞどうそ」  嬉しそうな笑顔で、正面に座られたら、ちょっと落ちつけない。  指についたお米を舐めながら、何気なく言った。 「おやつタイムは、……昔、ある少年の筆下ろしした時から始めたんです」 「ぶっ」 「わっ 一龍のコロッケにかけないで!」  コロッケを自分の方へ引き寄せて、もう一度言う。 「君がおやつタイムを不思議そうに聞いたから応えたのに」 「や、え、氷雨さん、え、えーっと、筆下ろし?」 「そうです。子供は根元まで全部下ろしてつぶしちゃうから、うちは俺が全部筆を下ろしてますよ。小筆とかとくに小学生には難しいかなって」  コロッケに手を伸ばすと、プシューっと空気のように彼の身体から力が抜けた。 「貴方らしいけど、びっくりした」 「何で?」  俺が尋ねても、彼は口ごもるだけだ。 「俺は名前とか覚えるの苦手だし、仕事中は子供たちも下を向いて書くでしょ? 俺も書くときは集中したいし。だから顔も覚えられないなって。あの時、男の子がはっきり言ってくれなかったら――きっと俺は気付かなくていっぱい子どもたちを傷つけたかもしれない」  多分、あの男の子はそれ以来来ていない。  橋本さんは親の都合だと言ってくれたけど、きっと俺が傷つけたせいだ。 「でも、部活とか辞めて父の手伝いに回った時期と、兄が亡くなって借金でガタガタだった時期は、ぽっかり穴が開いたみたいに記憶があやふやなんですよね」 「そ、うだったんですか」 「多分、俺の精神的な容量って結構少ないんです。橋本さんが未だにフォローして下さるのもきっと俺が不安定だからです。だから俺も迷惑かけない程度で、この小さくて古い家でひっそり生活するのがあってるんでしょうね」  あはは、と笑うとホカホカのコロッケにかじりつく。朝から、あの行列ができるおにぎり屋さんのコロッケが食べられるなんて幸せだ。  ただ、この得体のしれない彼のおかげだと思うと、素直に感謝できないのも事実なんだけど。 「記憶が曖昧な時期でも、その少年のことは覚えてくれてるんですね。――じゃあ、俺はそれで我慢できます」 「我慢……ですか。見た目は辛抱強そうには見えませんけど」 「なんすか。まだ俺が怖いんですか? 見た目?」  不思議がる彼に、どう答えるべきか箸を持ったまま固まる。 「うーーん。直感ですかね」 「なんだよ、それ」 不満げな彼を放置し、コロッケ二枚目を頬張った。 「用意だけしたら、俺ちょっと仕事行きますけどまた戻ってくるんで。生徒って大体一時ぐらいから来るんですよね」 「そうですよ。一応9時からも何人か来ますが数人なので……。でも本当に手伝ってくれるんですか?」 「迷惑そうに聞いてくるな。これも俺の本業の仕事に関わるから問題ないんです」  本業ねえ。怖くてそれ以上聞かなかったら、ちょっとだけ彼が拗ねたような気がした。  難しい。反抗期の子供ぐらい、彼の言動は読めない。 「おっととと」  食べ終えて立ちあがろうとしたら、また右足が鈍く痛んでよろけてしまった。 「大丈夫ですけ? 氷雨さんって細いから風が吹いただけで倒れそうですね」 「た、倒れません!」  失礼な。体力や筋肉はないけど、書道中の集中力とかなら彼には負けないのに。  結局、持っていたお皿やお箸を強奪されると、流しへ持って行かれてしまった。 「じゃあ、俺行ってきますけど、橋本さん曰く、どうしても洗濯機を回す場合は、俺にやらせてって。氷雨さん、洗剤の入れ方が何度言っても間違えるからって」 「……結構です」  橋本さん、そんなことまで彼に言わなくてもいいのに。30歳手前で洗濯機も使えないとばれるのは、些か居心地が悪い。 「では、行ってきますね」 「どうぞ、ごゆっくり……」 助かる様な、……迷惑の様な複雑な心境の中、彼は出かけて行った。

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