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三、私雨 五

 こんな人数じゃ囲まれた人が……。俺は携帯を持っていないので、周りに電話を借りれそうな場所がないか見渡した。 「嘘か、てめえっ」 「お前、今、自分のこと樹雨って言ってたやろうが!」 「そりゃあ、お前らに俺を殴らせるためだよ。これで立派な障害罪。馬鹿は単純で助かる」 「んだと!」  ……樹雨? 驚いて、飛び出すと――目の前には彼が居た。殴られたのか、唇の端を切り、ズボンが汚れている。 「君は――っ」 「っち。氷雨さん」 「け、警察を呼びました! け、喧嘩するなら、も、もっと呼びますよっ」  ハッタリだったけれど、彼を囲む数人の男たちは動揺して殺気を収めている。 「もっと呼ぶ、ねえ。本当に貴方って人は」  クスクスと彼は笑うと、男たちの方へ振り向く。 「じゃあ、いっぱい来る前に行こうか。すぐそこの交番に」  指の骨を鳴らしながら彼は数人の男たちを誘導していく。不思議なことに、誰も抵抗なんてせず文句を言いつつも彼につられて歩き出した。 「氷雨、すぐ家に行くから、良い子で待ってろよ」 「ひ、氷雨!?」  また俺を呼び捨てにした?  血を拭い、不敵な笑顔を向けた彼は、――今、もしかして兄の名を使って暴力を起こしていたのだろうか?  その言葉に反応するかのように、怖い人たちが俺を上から下まで見る。 「へえ……こいつか」 「お前らはこっちだ」  見るからに柄の悪い人たちだったけど、数人に囲まれても全く怯んでいない。  彼は――何者なのだろうか。  もしかして、そっち系とか。その、所謂ヤクザさん? 「ええっ!?」    自分で言っておいて、自分で驚いてしまう。  もしそうだとしたら、俺は自分の教室の子供たちを守るためにも、彼にはっきり引導を渡さなければいけない。 「腹ごしらえして、――戦ってやるっ」  ランチの蕎麦屋へ向かう俺の足取りは、のしのしと重く、そして心臓は早く波打っていたのであったっ  俺の様子がおかしいと気付いた蕎麦屋のおじさんがエビ天とゴボウ天を追加してくれた。  それから自宅へ戻り、長机を拭いてバケツを裏口へ準備した。筆を洗う時に全部水につけてしまうと次から使えなくなる。なので全部筆を浸けないように、バケツに少し水を溜めてそこで洗って貰っている。  いつもは橋本さんが横で見てくれているけど、――今日は俺一人でしなければ。  その時、縁側で大きな音がした。  裏口から顔を出してみれば――彼が自分で直した板の上に仰向けで倒れこんでいた。 「き、君はっ」  追い返そうと近づけば、――彼の口元の傷が痛々しくて躊躇してしまった。 「俺は、暴力を奮う人なんて大嫌いです。本当に――嫌悪しかないですっ」 「だよね。でもパフォーマンスだから本気じゃない。あれぐらい威嚇しなきゃ、うろつかれたら目障りだし」 「うろつく……。貴方のお知り合いってことですか? 貴方の縄張りに入ってきたから暴力を奮ったんですか!」  ふるふると両手が震えたけれど拳を作ってぐっと耐えた。 「待って。殴られたのは俺。俺はあいつら殴ってないし」 「でも君は、怖かったっ」 「氷雨さん…」  最初からだ。威圧的な態度も横暴な言動も、それでもまるで被害者みたいに悲しい顔をするもの。  全部、すべて。目の前の人物がなにをしたいのかわからない。  おまけに、怖がらせておいて……キスもしてきたし。 「名前も分からないから、君とか貴方とか呼ばないといけないし…」 「それは、俺の名前を言えば解決するんですか?」 「ふ、普通名前ぐらい名乗るべきだ」  兄の名を語って俺の前に現れた理由が、本当に検討もつかない。  だから不気味で仕方ないんだ。 「俺は貴方がわからない」  そう言った瞬間、穏やかそうに閉じられていた目がカッと開いて、置き上がった。 「人の気も知らないで」 「じゃあ名前ぐらい――!?」  距離をとっていたつもりだったのに、伸びてきた手を避けることが出来なかった。 彼は、偶然にも少し痛むを持ってた右足を引っ張り、倒れた俺をキャッチするとそのまま畳へ押し付けた。 「貴方は人を騙せないから、俺に騙されていればいいんです」 「っや」  凄い力だ。押さえつけられた手が、自分の手なのに一ミリも動かない。 「じゃ、じゃあ俺も殴ればいいじゃないですか」 「だーかーらー、俺はあいつらを殴ってないってば」

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