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三、私雨 六
「でもっ」
「でもなんですか?」
「どうして俺にはこんな乱暴なことをするんですか…?」
この前は、き、キスだってしてきた。どうしてこの人は俺が嫌がることをしてくるんだろう。
「乱暴…は性分かな。昔から悪ガキだったから、俺」
「わ、悪ガキっ」
でもちょっとだけ納得できてしまう。手のかかる男の子だったろうなって。
「小さな頃から乱暴だったんですね」
「そんな憐れみの目で見るのやめてくれる? 俺としてはアンタの方が可哀相だ」
掴んでいた手首を、上に持ち上げられると、ひとくくりにされ片手で掴まれた。俺の手首は、この人には片手で捕まえるほど細いのか。
「俺が可哀相って」
「悪ガキの頃から、こんな風に俺に見られて」
自由になった彼の右手が、俺の足に触れた。段々と這い上げって来て胸の所まで指でなぞられる。
「こうやって押し倒すのが俺のずっと――」
顔が近づき、キスするのかとぎゅっと目を閉じて唇を震わせた。
「せんせーをたすけろ!」
バタバタと縁側から子どもたちが入ってくる。
中にはちゃんと靴を脱いで揃える子も居る中、皆、大きな習字道具を振り回しながら彼に襲いかかった。
普段、橋本さんの言うことしか聞かない皆が俺のために駆け付けようとしてくれているのか。
「せんせーはケイタイ持ってないから廊下の電話で警察にレンラクを!」
「ヘンタイ! 先生から離れろ!」
「にいちゃん、先生がやくざにおそわれてる!」
「イテっ イテっ こら、習字道具で殴るなっ」
彼に襲いかかる子どもたちのおかげで覆いかぶさっていた彼の下から逃げられた。
けれど、子どもに守ってもらうなんて。それに、このままでは皆が危ない。
「皆、離れて」
子どもたちを背に庇うと、彼を睨みつける。頭や腰を押さえて蹲る彼の様子を、皆で伺うと顔だけ上げてこっちを見た。
「悪かった。先生を見てると、ムラムラしちゃうんだよ」
「む!?」
「せんせい、ムラムラって何?」
「む、昔昔、村々の人々はああああ!」
子どもたちの前で。子どもたちの前でなんと恐ろしいことを言うのか。
「それ、無理ありすぎだから」
「せんせい、よく分からないけど、あの人悪い人?」
「人数なら俺たちの方が多いぜ!」
「ぼく、野球のバットもってるよ!」
この人数なら確かなに勝てるかもしれない。でも教え子の皆を俺が守らず守られるのはおかしい。
生徒を守れずは書道家にあらず!
「すまん。橋本さんの代わりに今日一日手伝いに来た見習いマンと言います。宜しく」
スッと正座して彼がそう言うと、子どもたちに深々と頭を下げた。
「見習いマン? 何それ」
「せんせ、ケーサツに通報する?」
それでも子どもたちが信用せずに携帯を各々持って、いつでも通報できる様子だった。
「橋本さんに言われて、今日のおやつにアイスを用意してきてるぞ」
その一言で、普段俺が買う貧相なおやつに飽き飽きしていた子どもたちが堕落したのは言うまでもない。
……丁度今日は月初めで、段級認定試験のお手本が変わる日。
大忙しなので、猫の手でも悪者の手でも借りたいのは本当だ。
「皆さんもし万が一、このお兄さんが悪い奴だったら俺が戦う間に逃げてくださいね」
「……でもせんせい、よわそうだよ……」
「か、勝つのが目的ではなく、俺は時間稼ぎしますので」
「流石に子どもの前では手を出しませんので安心してください」
彼の飄々とした顔に墨汁で真っ黒に染めてやろうかと思った。本当に彼は俺の神経を逆なでする。
「では、俺が皆にお手本を書いて回るので、さっさと準備に回ってくださいね」
彼を視界から追い払い、俺は準備が出来た子からお手本を書きに回った。
五月雨、天泣、あめ、年齢によってお手本に書く字は違うけれど、梅雨が近づいたこの時期に合わせて、雨の単語のお手本ばかりだ。
墨を梳くのは大好きな作業なのだが、お手本の変更時は、全員に書かなければいけないのでそうは言っていられない。
「……ふう」
全員分を書き終わった後、額の汗をぬぐいながら顔を上げた。
すると、いつから見ていたのだろう。正座で真っ直ぐの俺を見る、彼の姿があった。
「……見習いマンさん、雑巾の準備は終わってますか?」
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