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三、私雨 七
「はい。……すぐに」
心此処にあらずと言わんばかりに上の空で応えると、雑巾を10枚近く持って現れた。
そんなに要らないのに。
俺の失敗したお手本の字を見ながら、雑巾をもってほうけている。
「……?」
まさかとは思うけど、俺のお手本を書く姿に見惚れ……るわけはないか。
習字に興味などなさそうだし似合わない。
「せんせい、書けました」
挙手をする生徒が現れたので、朱書きに移り、そんな考えも忘れるほどに仕事に没頭した。
全員の朱書きを済ませたけれど、やはり初日の練習では、昇格試験用に提出できそうな作品を書ける子は少なかった。
お稽古一回ごとに提出用にうまくかけたのは取っておいて、最終日に四枚から選んで提出……をするのだけれど、毎月昇格出来るほど呑み込みの早い子は居なかった。
(……集中力とか忍耐力をつけたいって理由で習わせてる人もいるし、子どもたちも真剣に段昇格を意識してる子も少ないもんなあ)
昔はもっと段試験に皆意欲的だったのになあ。
「氷雨さん、もう皆、縁側に出ましたよ?」
「え、わ、皆、筆は綺麗に洗ったの!? 綺麗にしなきゃすぐに痛むよ?」
「一応、俺が横で見てました。氷雨さんは真っ白い半紙と睨みあいしてたので邪魔しないように静かに片付けてました」
うわー。なんか半紙を前に難しい顔してたら話辛いよね。別に仕事ではなくただぼーっと考え事をしてたとは言えない。
「そう。ありがとう。もう少し睨みあいしとくので、子どもたちと先にアイスの準備しててもらっていいですか?」
「はい。あ、台所のどこにスプーンがありますか? 漁って良い?」
「え、棒アイスじゃないの!? 人数分あるかなあ」
スッと立ちあがったとき、畳に付いた俺の着物の裾からポトポトと何かが落ちた。
「え?」
「あ」
慌てた俺とは反対に、彼が目を見開く。ぽとりと落ちたのは、先刻……裾に隠したままだった俺の下着だった。
「わ、これは、違うんです!違うんです!」
「下着の何が違うの? 裾に入れて温めて履くってこと?」
「違うんですってば、これは、雨に打たれて洗い直しの奴で!」
「ああ、じゃあ俺が」
「うわーー! 絶対ダメです!」
……くそう。彼の前では毅然とした態度で隙なんか与えたくないのに、俺はどうしてこんなに決まらない奴なんだ。
「氷雨さんって可愛らしい下着を穿かれるんですね」
「……セクハラです」
プイッと反らしつつ、心の中は恥ずかしくて大騒ぎだ。橋本さんが俺は着物ばかりで地味だからと、ちょっと自分では買わない下着を買って来たりするんだから。
一番派手なお尻に大きなハートを見られてしまった。普段は黒なのに。黒いボクサータイプなのに。
「あの……子どもたちを待たせないで下さい」
「はい。じゃあスプーンお借りしますね」
クスっと子ども扱いするように笑う彼が憎らしい。今日だけだ。
今日の手伝いさえ終われば、本当に家になんて入れない。
しゃ、謝礼も渡さなければいけない。
「すみません。今日の謝礼を――」
縁側に歩いていくと、一列に並んで皆がアイスを食べていた。先ほどあんな出会い方だったのにもう打ち解けている。
「じゃあトイレのカギ直してよ」
「つぎは屋根の雨漏り!」
「次は畳がキィキィ言うの!」
「分かった分かった。全部俺に任せとけ」
「こ、子どもたちを懐柔しないで下さい!」
俺だけは、俺だけは絶対に油断しませんから。アイスも我慢して睨みつけた。
「謝礼の件ですが、橋本さんが帰ってきてからでもいいですか?」
「謝礼……ああ、現金か。俺の仕事は副業禁止なんで貰えません」
「副業禁止? ヤクザってそんな掟もあるんですか?」
「ぶっ」
「うわ、汚い」
「離れろ離れろ!」
海の波のようにズササーと子どもたちが彼の周りから引いていく。アイスを吐きだして咽る彼に、慌ててティッシュを差しだした。
「子どもたちの前で特殊な職業を言うなんて、軽率でした」
「いや、なんていうか、違うから」
「違うって?」
「俺の職業」
ティッシュを受け取って口を拭いた後、反対側の手でクシャクシャと髪を掻く。
「俺がそうならないように導いてくれたのは、貴方なんですけどね」
「ほ!?」
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