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三、私雨 八

 薄々感づいていたけれど、もしかして彼は……。  俺に名前を覚えてもらえなかった当時の生徒たち?  としたらこの大人ぽい容姿だけど、何歳なんだ?  一番最初の生徒は流石に名前と顔は一致するし、時々此処に遊びに来たりする。  忙しくなってぽっかり空いた時間の……生徒?  だから橋本さんも彼を知っていた? 「ところで、氷雨さん」 「はい?」 「電子レンジの中の物……何日放置されてたんですか?」 「ばれっ!」  さああっと血の気が引く。せっかく名推理がさく裂していたはずなのに、その言葉で一気に熱が冷めた。あのお味噌汁を見られたのか。 「汁も飛び散ってたし、水分も飛び過ぎてお椀の中の味噌がこびりついていたので、洗剤垂らした水に浸けてます」 「……それはどうも」  動揺を隠すのが精いっぱいだったけれど、きっと彼にはとっくにばれているのだろう。 「下着も、良ければ手洗いしますよ」 「ヘンタイ!」  男同士なので、下着ぐらいそんな騒ぎたてることではないのに、彼は前科がある。 それにちょっとなんか、触れられたりすると怖いから距離を取りたいのに。 「そう言えば、怪我の経過はどうですか? ちゃんと処置してます?」 「へ!? え、ええ」  昨日は忘れていたとは言えず、曖昧に頷く。 「見せてください」 「ひゃぁっ」 「生娘みたいな声上げないでください」  間一髪で、着物に触れられた時点で逃げたけど、気をつけなくては。 「俺より、君のその口の端っこの方が痛々しいです」  先ほどの喧嘩の名残。手当してやるべきか悩んだけど、触れる行為に抵抗があった。 なんか、至近距離じゃ心臓に悪い顔しているから。整っているし俺と違って男らしい。  でも危険な雰囲気が漂っている。 「せめて絆創膏でも……あっ」  救急箱を開けただけなのに、つるっと包帯が飛び出した。  ころころと縁側を走り抜ける包帯を止めようと手を伸ばすと同時に、右手を救急箱に突っ込んでしまった。 「ぷ。手当なんて貴方に期待してないです」 「おーい、見習いマン、包帯転がって来たぞ」 「ああ、俺がするよ」  彼は立ちあがる瞬間、俺の肩を支えに使った。  触れる彼の大きな手に、大きく動揺した俺を彼は見ない。  きっと気付いているはずなのに。 どんどん俺の視界を、――彼が浸食していく。 しとしとと落ちる雨が地面にしみ込むように……。  彼は俺の中に、俺の家に、少しずつ入りこもうとしているんだ。  そんな屈託ない笑顔を作ってまで。  もし彼が俺の生徒だとした場合、名前を偽って近づいてきた理由はなんだろう? また近づいてきた目的は? 「……」  漸く、ゆったりとした生活を送れると思った俺の前に、梅雨が視界を遮った気分だ。 その梅雨に俺の気持ちも憂欝で重く、そして甘く締め付けられていく。 俺にはまだこの感情の意味が分からない。

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