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四、細氷 一
朝露に濡れる花を見た。
ゆらゆらと揺れるその花は、うちの崩れた塀の外に置いてあった花だった。
花の名前は覚えていない。
ただ金額が一番安く、大輪で壊れた壁を隠しやすいのを父が選んだ。その花びらが、たまに庭に舞い落ちてくると、申し訳なく思う。君は壁を隠すための存在で花を愛でる対象じゃなかったんだよと。
けれどこの廃れた庭よりも外壁に飾られた方が、きっと花は美しい。
俺はこの壁の中に居る方がお似合いだしね。そんな現実逃避をしながら、俺は電話をかけた。
「あの、朝早くすみません。今、お時間大丈夫ですか」
『おはようございます。大丈夫ですよ。今、孫と一緒にサーフィンしておりました。今日帰りますね。お昼はそうですねえ、私が』
「き、緊急事態なんです。アイロン使ってもいいですか?」
『ダメですよ。以前父の日で着物にアイロンかけてあげようとして、70万の絞り染めに黒い焦げを作ったのをお忘れですか』
緊急事態の今、もちろん忘れていた。
『緊急ってどうされたんですか?』
「下着が一枚も無いんです!」
『あ。なるほど……』
「水洗いしたんですがドライヤーも見つからないし」
『ドライヤーは……安い生地のものは縮みますから止めた方が……』
「ど、どど、どうしましょう!」
既にスースーして気持ちが悪い。着物以外は、ろくな服も持っていないことに気付いたし。
『干しておけば、昼には乾くんじゃないですかねえ』
「さっきから細い雨が降ってるんです」
『じゃあ駅前の商店街の洋服屋さんが激安なので行かれてはいかかですか? 確か99円からありますよ』
「それです! ありがとうございます!」
彼が今日も、屋根の修理にやってくる。
許可はしていないが、彼の家の庭に材料が置かれているのを見た。不意打ちで太ももまで着物をめくる彼だ。
もし下着を履いていないとばれたらどんな行動をとるか予測がつかない。
なので歩くのも気持ちが悪かったけれど、下着を求めて久しぶりに街まで出ることにした。
スーパーも橋本さん任せにすることが多いし銀行と近くのお蕎麦屋さんとたまにスーパー。
だから駅まで出かけるなんて、緊張してしまう。
「あれ? 先生、おはよー」
「舞ちゃん。朝早いねえ」
駅前のバス停でランドセルを揺らして手を振ってくれる舞ちゃんを発見した。知ってる人がいるのは心強い。
「朝の駅は人が多いのに来て大丈夫?」
「はは。商店街に行くだけだから大丈夫だよ」
「ふうん。こんな朝早くに開いているお店なんてあるかな」
「あさはやく……っ」
現在の時刻は七時半……。
「……もう。先生って本当におっちょこちょいなんだから。その先にコンビニがあるよ?」
「ありがとう……そうするよ」
コンビニだ。高いけどコンビニで下着を買って帰ろう。
これじゃあ下着を穿かずにウロウロした痴漢みたいになってしまうからね。
舞ちゃんに手を振り、コンビニを目指す。
コンビニはスーパーより価格が高いから遠巻きに見る建物だったけれど、今はこの文明の利器に跪きたいぐらい感謝している。
だけど。
「うっせーなあ、はなせよ、こらあ!」
コンビニの前で、警官二人に取り押さえられているスーツ姿の年配の人が暴れていた。
「酔ってねえよ! ちょっと床の匂いを嗅いでたんだ! やるかあ、おれは英検三級だぞこらー!」
(英検三級か……サラリーマンはやっぱ資格が多い方が偉いのかな)
入り口で暴れているので様子を伺うしかできない。
風が吹くだけで落ちつかないので、コンビニの中に一刻でも早く入りたいのだけど。
入ってもいいかな。
警察官に中に入りたいのだと、視線を送ろうとした。
「え、ええー……」
ついそんな言葉が漏れてしまう。
二人居る内の、身長が大きくて足が長い警官。
必死で押さえつけているその人に、俺は見覚えがあった。
でも――名前を呼ぼうにも彼の名前が分からない。
バクバクと大きく鳴りだした心臓は、余りの突然だったからか。
それとも、信じられないからか。いや、まだ違うかもしれない。
彼の隣の人は警察の服だけど――彼はよく見れば制服じゃない。スーツ姿だ。
「あ、あのう」
「すいません、利用されたいんですね、入って構いませ―っ」
彼の切れ長の目が大きく開かれる。酔っ払いのサラリーマンの羽交い締めを辞めると、サラリーマンは簡単に尻もちをついて倒れてしまった。
「氷雨さんっ」
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