21 / 71
四、細氷 三
桐生 喜一
きりゅう きいち
名前は、コトンと俺の胸の中で落ちて音を立てた。
隣の家も桐生。
「……喜一くん」
名前はそんな名前だったか分からないけれど、名字は見覚えがある。
おはぎをくれる優しいお婆さんの家に長期休暇の時だけ来る男の子。
それが彼だったとしたら、合点がいくかもしれない。
蝉の抜け殻を投げつけてきたり縁の下に入って蛇と格闘したり、俺に全く懐かない男の子が隣に居た気がする。
近所の中学生に喧嘩をふっかけて、橋本さんや父に手当てされていた。
「……」
だから救急箱の場所を彼は知っていた。だから俺の兄の名前を彼は知っていた。
でも俺と接点はなかったんじゃないかな。俺が教えていたことあったっけ?
隣に男の子が居たのは覚えてるし手が付けられない感じだったのも覚えているけど、顔は……彼だったか思い出せない。
でもそんな彼が刑事という身分を明かさず俺の前に現れたのはどういう意味があるんだろうか。
「……」
喉に何か引っかかったような、すっきりしない気持ちが残る。飲む込みことも吐きだすこともできないその気持ちが、俺の心を掻きまわし不安にさせていく。
彼が刑事だと知っていれば、俺は少しは警戒を緩めたのかもしれないのに。
あの惷月堂のお土産だって素直に受け取れたのに。
それに兄の事件。兄の事故について、おかしなことを言っていた気がする。
橋本さんなら何か知っているのかもしれないけど、じゃあ何故、皆黙ってるんだろう。
「おい、此処で間違いねえんだな」
「そうです。こちらです」
彼のことを色々と考えているうちに、数時間経過していたようだ。
水洗いして乾かしたままの下着を取りに行こうとして、声がするので驚いた。
裏口の方から家の中に居る俺にはっきりと聞こえるような怒鳴り声で誰かの声がした。
「まあ、この家なら悪くねえかな」
「そうでしょう。あとは師匠の好きにしてください」
「この声……!?」
彼の声だった。こんなに丁寧に話している彼を初めて見る。
急いで台所の窓からこっそり覗くと、がっしりしたおじさんが彼と立っている。どう見てもこのおじさんも堅気ではなさそうな、柄物のシャツに短パン姿。
袖やズボンから見える手足は、傷だらけだ。
師匠って呼んでいたみたいだけど、どんな仲なんだ?
「しっかし、金はあるのか?」
「なければ俺が何とかしますよ。ご安心ください」
「俺は金にならねえ仕事はしねえぞ」
「分かってますって、――俺に任せてくださいよ」
「お前も言うようになったじゃねーか」
彼の背中を叩きながら、満足そうに笑うそのおじさんは、俺の家をじろじろと観察すると満足したのか帰って行った。彼はその背中が見えなくなるまで深々とお辞儀している。
「……刑事がヤクザと繋がっていていいんですか?」
「うわ、びっくりした」
台所の窓から彼に話しかけると、大げさに驚かれた。
「……人の裏庭であんな隠れもせずに堂々とお喋りしてた嫌でも聞こえてきますけど、君は俺の家の土地でも目当てなんですか?」
今朝の事を思い出して、全力で睨みつける。
「そう貴方が思うなら、それでいいけど――」
先ほどの低姿勢から一変。ネクタイを緩めながら俺を見る彼は、静かに淡々と不機嫌になっていくのが分かった。
「俺の事、ちゃんと思い出したんですよね?」
「ひっ」
「何処まで思い出したのか、教えてくださいね!」
裏口のドアを回された。彼は裏口は右に二回回せば開くことを知っている。玄関から逃げようと、踵を返した瞬間、ぺちんと頭から転んでしまった。
「いって」
「……え?」
裏口から入ってきた彼が明らかに動揺した声を漏らす。恐怖で身体が上手く起き上がれない俺は振り向くと、呆然としている彼が立ちつくしていた。
「……氷雨さん、下着穿いてないの?」
「え、あっ……」
扱けた拍子に、ぺらりとお尻がコンニチハしてしまっている。
「うわああああああ!」
「え、あ、着物って下着穿かないんですね……うわっ」
口を手で覆って照れているが、恥ずかしいのは俺の方だ。
「ちがっ 雨で乾かなくて、商店街が開いてなくて買い忘れて」
着物を押さえながら後ずさると、何故か彼は靴を放り投げて俺の方へやってくる。
じりじりと。
「俺の事思い出したなら、許してあげますけど、思い出した?」
「君は――桐生さんのお孫さんだろ。わっ」
着物の袖を掴まれて、両手で必死に押さえる。
「じゃあ俺に初めて教えてくれた漢字二文字は?」
「漢字二文字……?」
「俺が貴方に大声でアンタに聞いた言葉は?」
「えっと、その、俺は――」
「時間切れ」
ともだちにシェアしよう!