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五、樹雨(きさめ) 一

 ポロポロと泣きながら、氷雨さんが俺の手に噛みつい た。 Side:喜一 『えげつねえことをするな』  刑事がそう呟いていたのを覚えている。現場の残上に俺も言葉を失った。 『こりゃあ証拠も出てこないだろうな。用意周到なことで』 『こうなると本人は気付いていたんでしょうね。保険金をずべて解約しています。使った痕跡はないですね』 『それの在り処を吐かなかったのかもしれねえなあ』 『刑事!』  二人の会話を聴いていた俺に気付いた他の警察官が二人を呼ぶ。この事故を見て、氷雨さんは泣くんじゃないだろうか。  あの刑事の話が何度も何度も頭の中に響いてきて、俺は酷く混乱していた。  酷い雨が降る夜だった。雨だと分かって行われた事故に見せかけた事件。  当時、俺に理解が出来たのはそこまでだ。  それ以上の事は、……氷雨さんに会ってから考えた。  しとしとと、淑やかに降る雨は氷雨さんみたいに優しくて好きだけど、全ての音を掻き消すような雨は嫌いだった。それでも、泣くのを堪える氷雨さんはもっと嫌いだ。 婆さんに連れられて行った通夜の席で、あの人は倒れそうな真っ青な顔で気丈に座っていた。  痛みに耐えるような姿。いつも以上に細く頼りなく見える腰。  倒れてしまいそうに震えながら、父親と橋本さんの二人に指示を仰ぎ、通夜に参列した人へ深々と頭を下げる。 その氷雨さんの瞳に、また俺の姿は映らなかった。 「っ。痛いですから! 離してください!」  下着を着ていない氷雨さんに欲情して思わず手を出したのは、確かに俺が悪い。 でもまだ色々と氷雨さんにばれたくなくて、脅かしてやろうと思ってたから丁度いい、ついでに触ってみたいと思ったのは俺だ。   嫌がるのは、知らない行為が怖かっただけで触られて甘い声を出していたのに。  つい謝ってしまいそうになったけど、もっと怖がらせようと慌てて写真も撮った。  ポロポロと泣かれてしまえば、噛みつかれてしまっても突き飛ばせない。 いや、更に嫌われるためにもここは、心を鬼にして突き飛ばすべきなのか。  震える氷雨さんに謝って抱きしめて許しを請いたい気持ちもあるが反面、この艶めかしい太腿に欲情してしまうのも本当だ。 (でも突き飛ばしたら、絶対着物がめくれるだろ……)  着物から見える足とか肩とか、目の毒すぎるんだけど。  ギリギリと皮膚に食い込む歯が、流石に泣き叫びたいほど痛かったけど、ソレは俺が悪いのだから受け止めるべきでもある。 涙が滲みそうなのを堪えていると、後ろから頭を思いっきり叩かれた。 「氷雨さんから離れなさい!」  スッコーンと再び良い音で叩かれる。 「橋本さん!」 「え。うわ。橋本さん」  やべ。  氷雨さんが抱きついた隙に、畳に零れた液体を急いでティッシュで拭きとった。  が、橋本さんはしがみ付いてきた氷雨さんに気を取られ、気付いていない。 「泥棒かと思ったらやはり君でしたか。喜一君」  俺と分かっていて、バッグで殴ってきたのか、このクソジジイは。赤いハイビスカス柄のアロハシャツを着た、白髪のくせに妙に若いくそじじい。 お前、10年以上前から老けてねえだろ、この野郎。 未だに喋れずに震える氷雨さんに、橋本さんはバッグからシーサー柄のボクサーパンツを取り出した。 「どうせ貴方の事だから下着買えなかったんだろうなと思いまして買ってきました」 「橋本さん!」 「どうぞ、着替えてきてください」  こくこくと氷雨さんは頷くと、廊下を思いっきり走って行った。 「で、糞ガキ。氷雨さんに何をしてたんだ?」  あの人が居なくなった途端に、一オクターブは低い声で橋本さんは俺に言う。書道教室のガキ達が氷雨さんを舐めていると、この人が裏で脅すんだから性質が悪い。 氷雨さんの中ではこのジジイは聖人君子に映っているんだろうな。 「何って、別に俺はあの人が好きなんだから、アプローチぐらいかけていいだろ」 「そういうのは、しっかり仕事を終えてからするもんじゃないのかな」 「しょうがねえだろ。好きなんだから我慢なんて出来ねえよ」  目の前で、何も知らずに呑気に縁側にハマってしまうような氷雨さんが居たら、俺は仕事だけに集中できるか。 「我慢ねえ。でも10年も我慢してきたんでしょ? 今さら一年、二年、我慢できないんですか?」  挑発するように言われるが、そんな言葉では俺はもうキレたりしない。あの人の事以外で俺は怒ったりしない。 「10年じゃねえよ。14年だ。初めて会ったのは14年前だ。そんな頃から氷雨さんを見ると欲情しちまうんだから、触れたら最後――止まれるわけねえよ。

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