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五、樹雨(きさめ) 二

 嫌われるのと、赤の他人では断然前者だ。嫌われた方がいい。  氷雨さんに俺を知ってもらってるってだけで大きな進歩だから。  俺を見て全く気付かないのか、そもそも全く忘れているのか、これはどちらにしても悲しい。 「それはまあ、10年以上も報われない馬鹿な生き方をしてしまって可哀相に」 「……心にも思ってねえだろ。いいけど」  氷雨さんは、――何も知らないままでいい。  何もなかった。何も本当はなかった。  貴方が知る前に事件を解決してしまえば、最初から無かったものと同じことになる。  解決すれば、貴方はこんなところで故人の残したものに囚われず、自由にもなれるのだから。 「で、進展はあったんですか?」  橋本さんが鞄からちんすこうを取り出して俺の頭の上に置く。  俺へのお土産じゃねえだろ。どうせあの人へだ。 「独自で動いてる方には進展があった。俺が樹雨の名前でここら辺うろついたら、すぐに動いてきやがった」 「刑事が自分自身でおとり捜査ねえ。見つかったら退職も覚悟しなきゃだよ?」 「はん。目には目を、悪には悪を。どうせ、あいつらが俺の事をどう証言しようが、誰も信じねえだろ。事件の前ではどうでもいいことだし」 「ふむ。無能な刑事がどこまでしてくれるのかしりませんが、私は氷雨さんの耳に入らないように、雑音を遮断しておきますか」 「それでいい。――だが俺が絶対に解決してやる」  このまま氷雨さんをここに閉じ込めたくない。  あの人は気づいていないんだ。ここは織の中。貴方は囚われていること。 「強気だなあ。若さって怖い怖い」 「ふん。ほざいてろ。次は俺があの人を俺の腕の中で守るんだ。絶対に俺に惚れさせてやる」  今は中途半端に手を出したり助けたり、餌付けしたりしかできないけど。  絶対に守るって決めてたんだ。あの人は何も不安を感じさせない。  花に埋もれて、悪い奴らから隠してやる。  絶対に、だ。 「で、明日から大工の師匠に屋根の修理と花壇を作ってもらうことにしたから」 「師匠って、あのタヌキみたいな体型の、江戸っ子みたいな話し方の岸辺さん?」 「そ。引退したって聞いたから暇だろうって思ってさ、この家の屋根を見てもらった。割れてる瓦があったら交換もしてくれるって」 「暇じゃないだろう。何十人も弟子が居たんだからきっと社長として忙しいだろうに、――お前の無鉄砲さは変わらないなあ」  やっと橋本さんが、氷雨さんの保護者目線から俺への保護者目線で語ってくれた。 「これでも考えるようになったんだけどさ。親が大学出ろって五月蠅かった時も、刑事になりたいから公務員試験受けるって言ったら信用ゼロだった」 「そりゃなあ。警察にお世話になりそうなガキが、刑事だなんてふざけてるだろ」 「ふざけてねーっての。俺は不毛な片思いのために刑事になったわけじゃない。あの人を守るために刑事になった。国民だの地域の人々の為じゃねえよ。氷雨さんのためだ」 「……お前を刑事にするのを反対したご両親の意見は正しいな」  呆れたように橋本さんに言われたが、俺は別に正義のヒーローになりたいわけじゃない。  譲れないものがあって、守りたいものがあるだけ。 「だから、目の前に氷雨さんがいたら触れてしまいたくなるってことだ」 「畳を拭くような、ナニをしていたのか」  すると、廊下の方から小さな足音が聞こえてきた。控え目な足音さえ愛おしい。 「なあ、あの人って女とも経験ねえの?」 「……あると思うか?」  あったらショックだけど、あるような想像ができない。  女にも押し倒されてキャーキャー騒いだ後喘いでそうだ。 「橋本さん……」  不安げな声で、橋本さんを呼ぶ声がする。  その瞬間に、橋本のじじいが温厚そうな笑顔で近づいていくのが見えた。  忍者かあいつは。二重人格じじいめ。 「どうでしたか? 可愛らしいでしょ」 「お尻にシーサーが二つ…たしかに可愛いです。ですがね、キッズサイズって書かれていましたが、俺はもうすぐ30歳ですからね!」 「嫌ならどうぞ、お脱ぎ下さい」 「いえ、ありがとうございます。大切にします」  あーあ。上手に手なずけられてるじゃねえか。 「そう言えば、そろそろあの人から個展の参加要請がきますねえ」  ……あの人?  個展? 「なんでシーサーパンツからあの人を連想するんですか」  氷雨さんはその話が嫌だったのか、急に黙るとそのまま台所の方へ向かう。  台所の奥に風呂があって土間みたいな裏口付近に洗濯機がある。  たぶんそこに行くのだろう。  でもあの人、か。橋本さんが教えてくれなかったら、調べてみよう。

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