26 / 71

五、樹雨(きさめ) 四

「いえ。残念ながら……喜一くんの文字は好みじゃないかと」  橋本さんがからかう。  というか、毎日なにかと顔を合わせている彼と文通をしたいとさえ思わない。  お見合い相手には、忙しいので毎日会えないしどんな方かわからないので、会えない時に手紙を書いてほしいと提案しただけだ。 「文通のスタート地点にも立てないのかよ!」 「はい。立てない分際で手まで出したなんて……。それは氷雨さんにしてみればオオカミに捕食される子羊のようなものです」 「まじかよ」  橋本さんはからかっているだけだろうと分かったけど、彼は何故か本気で落ち込んでいる。  別に俺は、他人の字に好き嫌いはない。特徴的な書き方でも、字でもその人の個性なわけだし。  下手だと悩むならば教えるけれど、彼は俺の指導なんていらないだろう。 「取りあえず、帰ってもらってもいいでしょうか?」  先ほどの事がうやむやになる前に追い出したい。許し難い気持ちは変わらないのだから。 「……氷雨さんだって感じてたじゃん」 「帰れ!」  部屋の隅に置いてあった座布団を投げつけると、簡単に避けられてしまった。  本当に何から何まで腹立たしい。 「下品です。本当に下品」 「えー、男ならこれぐらい当り前だし」 「同じ男の俺が下品だと言ってるでしょ。というか、ただ俺の体にセクハラしたいだけって感じです。貴方の本気は全く伝わりません」  埒が明かないので、橋本さんの話に乗っかってみようと思った。 「君が、俺の心を打つような文章と字で、手紙を書いてくれたならば、ちょっとは貴方を信用してあげないこともないですが」 「げ、やっぱ文通かよ……」 「嫌なら良いです。お帰り下さい」  にっこり笑うと、彼は黙りこんでしまった。  もしかして、字が汚いのかな?  俺は字の汚さも個性だとは思ってるけど、彼にはそれは言わない。  言ってやらないぞ。  嫌われるためにわざと点数をつけてやる。 「分かった。まあまだ家の引っ越しの荷物片付いてねーから時間かかるけどさ」 「自分の片付けもまだなのに、俺の家に入り浸ってるのですか」 「だって縁側に落っこちる人を放っておけないだろ」  そう言われてしまったら、ぐうの音も出ない。変なこともせず、兄の名も語らなければ、いやあと怖い目つきじゃなければ、悪い人じゃないのかもしれない。  なんとか帰らせ、橋本さんが入れてくれたお茶でちんすこうを食べる。  彼は、蜘蛛の巣のようにひび割れた画面の携帯を持って帰って行った。  写メはこれで大丈夫だろう。 「明日から、庭の工事と屋根の修復工事をするらしいです」 「橋本さんが手配して下さったんですか?」 「いえ。悪ガキの頃から貴方に片思いしている刑事さんです」 「……橋本さんは、彼をどう思ってるんですか」  二個目のちんすこうを頬張りながら、もやもやした感情を吐きだす。  俺には彼の目的がまだ分からない。  何か隠しているのは分かるのだけれど、俺に隠すということはやましいことじゃないのだろうか。 「彼は……昔貴方をデートに誘おうとしたことがあったらしいです」 「デート?」 「当時小学生だった彼が、です。でも貴方は忙しそうだったと怒っていました。花の檻に閉じ込められていると。――樹雨さんは笑っていましたけどね」 「俺の知らないところで、交流はあったんですね」 「交流と言うか、目に止まって五月蠅かったといいましょうか」 「俺は、彼を名前が聞くまで思い出せもしませんでした」  紫色のちんすこうを持って、ゆらゆらと漂わせる。  早く食べて、パイナップル味も食べたいのに、紫芋味のちんすこうを持ち、必死で彼を思い出そうとした。  すると、ぶっと橋本さんが吹きだすと拳を口に当てて笑う。 「喜一くんは氷雨さんを見ると真っ赤になって俯いて黙りこんだり、私や優雨さんの後ろに隠れたりしてましたからね。でも貴方が見ていないときは、目を離さなかったんですよ」 「益々想像できないです」  そんな可愛らしい男の子だった人が……俺にキスしたり、あ、あんな場所を握り、触って……。 (ううう)  思い出した瞬間、身体が熱くなる。ダメだ。思い出しては駄目だ――。 忘れようとちんすこうを一口で頬張ると咽てしまったのだった。

ともだちにシェアしよう!