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五、樹雨(きさめ) 五

Side:桐生 喜一  液晶が割れた携帯を見て笑ってしまう。電源さえ入れば、写メは消えていないんですよ。  でも絶対に教えてやらない。  あの人は、結局なんにも俺に関して思い出なんてないんだ。  昔、俺が硯をテーブルから叩き落としたことがあった。  氷雨さんが必死で雑巾で墨の汚れを落としているのを、壊れた壁の隙間から見ていた。  氷雨さんは暫く格闘したが、零れてしみ込んだ墨は落ちなかった。 『おや、その畳、どうされました?』  橋本さんが来て、代わりに拭こうかと言われ、氷雨さんは断った。 『いえ。戒めとして残しておこうと思っております』    悲しげに、花びらが落ちるような声でそう告げて、その言葉通りあの墨の汚れはずっと残っていた。  でも樹雨の通夜であの部屋を訪れた時には、畳は新しくされたのか消えてしまった居た。  完全にあの時には、氷雨さんの中で俺の存在は消えていたんだろう。  俺の中で貴方の思いは消えないのに、貴方は簡単に墨の汚れを、拭い去った。  貴方が知らないのならば知らないままでいい。  けれど俺の気持ちは、あの頃のまま墨のようにしみ込んで、もう綺麗な気持ちだけではない。  けれど俺は下品で横暴で、氷雨さんの体にただセクハラしたいだけの不審者って思われているのは些か侵害だ。  なので、今日も餌付けだ。  氷雨さんのお気に入りの蕎麦屋を横切り、一つ大きな路地を通過すると昔ながらの小さな商店街が顔を出す。  駅前の商店街とは違い、シャッターが下りている店ばかりだけれど、その一番奥に屋敷のように大きな和菓子屋がある。  老舗和菓子店と謳われるその店は、最近まで一見さんはお断りだったとされている。  ここ最近、八代目の店主が、周囲やお得意様の反対を押し切って、一見様に店の一角で一部の商品だけ売り出した。瞬く間に人づてに広がって買いに来る人が増えた。  それが、氷雨さんの大好きな惷月堂のどら焼きだ。  毎日通い、漸く今日、そのチャンスに恵まれた。  八代目が自らお店で商品売れ行きを確認していたんだ。 「すいません、どら焼き一つと、領収書お願いできますか?」 「いらっしゃいませ。どうそ、すぐに従業員を呼びますので」 「いえ。貴方に書いてほしい」  ずっと待っていたチャンスだ。 「領収書の宛先に、桜雨樹雨と書いてください」  キツネみたいな細い瞳の、一見優しそうな男だ。優しくて、大らかで、きっと繊細な和菓子を作れるのだと思う。  だが他の人は騙されても、俺は騙されない。  店主は一瞬だけ目を泳がせたけれど、すぐににこやかに対応し出した。  この肝の据わっている感じは、大らかな人間ではないという証拠だ。 「畏まりました。少しお待ちください」 「弟が好きなんです。お願いしますね」  俺は全く笑わずに淡々と静かにそう告げる。プレッシャーを与えたい。  俺の挑発に腸が煮えくりかえればいい。 「桜雨の家ですが、ずっと慎ましく暮らしていたのに急に瓦の工事や庭の増築、――縁側まで作り直すらしいです」 「桜雨……。ああ、書道の優雨先生のご自宅の」 「俺の家です。弟がいます」  領収書を記入しながら、店主は一度も此方を見ない。 「まるで知らないような口ぶりだけど、書道教室に通っていただろ。どれだけ慎ましく今、弟が生活しているのかも分かるはずだ」 「お客さん、人が悪いですよ。樹雨は私の学友でもありました。名を偽るのは構いませんが、亡くなった人をからかっては――」 「近々、弟に俺の保険金を全て渡す予定なんだ」 「……っ」 「探したんだろ? 見つかるわけねーよ。あれは弟に渡すために隠してたんだから」 「ははは。何の冗談だろう。私には分かりませんね」  男はそれでも、自分は何も知らないと温厚で知的な老舗和菓子屋『惷月堂』の店主を演じる。 「家を改装できるぐらいはあるからさ、俺の保険金」  どら焼きの金額をレジの上に置くと、袋にも入れないで手に掴む。じわじわと追い詰めてやる。 「すっかり丸くなっちまったな、吉保(よしやす)。誰もお前が道を外したなんて気付きはしねえよな。この俺さえいなければ」 「お客さん、勘弁してください」 「俺はちゃんと商品の金額は渡すし、自分の金は自分で使う。――その報告さ。お前には関係ない金だからな」  じわじわと突く。最初は重箱の隅を突くように、ねちっこく。  けれど、許しはしない。お前らのせいで、――俺はあの人をあの家へ閉じ込めて守らなくちゃいけないのだから。  貰った領収書の、樹雨の文字は綺麗で、動揺した様子が微塵も感じられない。  だからこそ、腹立たしい。  ばれた相手がただの若造だから、金でも要求されるとでも思ってるんだろう。  そんなんじゃ俺は満足しない。金じゃない。俺が欲しいのは、今も昔もただ一つ。 『よろしくね。一緒に頑張ろうね』  今も昔もただ一つ。あの人だけ。  俺の名前を覚えてくれなかった、美しいあの人だけだ。  何も知らないあの人は、きっとこの袋を見て喜び、食べたいけれど俺を警戒して食べやしない。  それでいい。こんな殺人犯が作ったどら焼きなんて食べなくて――。  帰り道の公園で、捨ててしまおうとゴミ箱に手をかざしてから手が止まった。  何も知らないのならば、渡して笑顔が見たい、と。  落ちかけた夕日が、俺の心によく映る。  落ちていく。貴方に、――そして奴を追いこむ形で。

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