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六、怪雨(あやしあめ) 二

 裏口で下着を閉まっていると、トラックが一台止まった。  岸辺さん達のトラックだろうと気にしないようにしたのに、向こうが第一声にとんでもないことを言いだした。 「あーあ。シーサーのパンツ俺も見たかったのに」  そう言ってトラックから出てきたのは、喜一くんだった。  いや、完全に俺は彼を喜一くんだと思いだしたわけでもないし、先日の行為を許したわけはないので名前は当分呼ぶつもりはないけど。 「……俺の家の敷地に入らないでくれますか?」 「ツンツンした氷雨さんも悪くないけど却下だ」 「却下の却下です!」  急いで裏口の門を閉めたら、彼はキーキーと何か喚いていた。 「俺は仕事で忙しいから、これは書道教室の皆で作業して下さい」 「これって、何も俺からは見えません。帰ってください」  開けるものかと裏口を精一杯押さえていたら、台所の小さな窓から紙袋が一つ投げ込まれてしまった。 「それ、惷月堂のどら焼き」 「惷月堂! ……いえ、要りません。食べ物では釣られませんので」 「どうせ、毎日買いに行くから、氷雨さんが食べないなら捨てるよ。俺は食べないし」 「食べないなら買わなきゃいいですよ」  一個、350円するどら焼きを毎日買う……。一か月で一万円もどら焼きで使うことになる。  彼は塵も積もれば大金になると知らないのだろうか。 「食べたくないけど、氷雨さんが喜ぶなら買うしかないでしょ」 「知りません」 「氷雨さん、開けてくれないなら聞いてください」  トラックから何かドサドサと落としながら、彼は静かな声で言う。 「岸辺さん達がいるから暫くは安全です。日中は岸辺さん、夜は俺と橋本さん。だから、一人で行動しないでくださいね」 「……お言葉ですが、基本的に俺は此処から出ません」 「出しませんけどね」  その言葉に、何か裏がある気がして胸がちくちく騒ぎだす。 「もし一人で家から出たら、俺の家に引きずり込みます。――何が起きるか分かるでしょ?」  何が起きるか……。その言葉に、彼の手の感触を思い出し頬が熱くなる。  あれは恋人のする行為だからいけないことです。 「ちょっと仕事が本格的に忙しくなるから、――俺は貴方が心配なんです」 「……しっかりしてなくてすいませんね」 「だって花は綺麗だけど簡単に手折れてしまうでしょ?」  俺を花に例えたのかと思うと、背筋が痒くなる。 「30に手が届きそうな大人を花って」 「じゃあ誰にも氷雨さんの綺麗さを見せたくない。だから、花の中に隠れて。こう言えばいい?」 「気障ですね」  男の俺に綺麗だの花だの、喜一君はどうしてそんな残念な思考になってしまったのか。  それでも今は、彼を直視すると羞恥で死んでしまいそうで会いたくなかった。 「では、岸辺さんがいるから俺は仕事に向かいますので」  トラックのエンジンがかかると、名残惜しげに排気ガスの匂いが漂ってきた。 「……」  彼の気持ちや言動を理解しろと言われたら戸惑うだけだ。俺に――恋愛感情を向けているのだと、あの瞳が言うのならば、俺は気持ちを受け止める自信はない。  恐る恐るドアを開けると、外には園芸用の土や花の種、スコップや如雨露が置かれていた。  花の苗も少しだけある。  そして親切に『初心者でもできる簡単家庭菜園』と銘打った本数冊。 (これは……俺に花を育てろと言っているのか)  自分を閉じ込めるための庭を自分で育てる。変な話だなって思う。  パラパラと本をめくると、紙の匂いが鼻を掠める。  ……不思議な気分。なんだか、ざわざわする。  彼は岸辺さんを雇ったり、どら焼きで釣ったりして、どうして此処まで俺を此処に閉じ込めたいのだろうか。  見えないように目隠しすればするほど、その指の隙間から覗きたくなる。 閉ざした世界の向こうで、彼は何をしているのだろう。 「……」  興味なんてなかったはずなのに、俺を閉じ込めようとするキミが何を考えているのか知りたい。キミが来なければ俺は、外の世界に興味なんてなかったのに。  俺は、キミに閉じ込められたふりをしながら、どうやって彼の真意を探ろうか。 「取りあえず、まずはこの土だね。この白い石みたいなのは肥料? こっち水っぽい土はなんだろう」  何かが変わろうとした予兆なのか、それからすぐに雨が降り出した。

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