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六、怪雨(あやしあめ) 四

「お、教えてくれないからです」 「思い出すも何も、坊ちゃんの記憶の中に喜一は居ないんじゃねえかな」 「そんなっ」    居ないわけじゃない。でも隣の家の男の子と彼は結び付かないのは本当だ。 「坊ちゃんと喜一じゃ、体温が違うんだよ。相手の事を話す時の体温が。喜一は坊ちゃんのことを話す時は淡々と感情を押し殺して話す。悟られないように。不憫だねえ。で、ぼっちゃんは、得体のしれない物体のように腫れものを見学するような感覚で話す。――温度も愛情も、理由も執念もなんも違う。仕方ねえんだけどな」 「……仰っている意味が分かりません」  いきなり現れて、兄の名を語り、そして――俺を閉じ込めようとする。   隣の男の子だと言うけれど、俺には熱烈な性格だった印象は残ってるが触れ会いはなかったはず――。 「どうせ、岸辺さんに聞いても教えてくれないでしょ」  車から病院が見えた。病院の駐車場へ止めながら、岸辺さんはまた豪快に笑う。 「坊ちゃんを好きな人間はきっと何も教えんだろ。その逆は、分かるな?」  俺を嫌いな人は、簡単に教えてくれる。でもそんな人、居るのだろうか。  自分が好かれているというわけではなく、――他人とのかかわりが少ないから嫌われた経験がない。  始めて筆おろしをした男の子ぐらいだろうか。あんなに露骨に嫌われたのは。 「これは――、岸辺社長じゃないですか」  車を停め、岸辺さんが助手席まで回り込み、俺の手を掴んで下ろしてくれていた時だ。  気配もなくその人は現れた。傘も差さずに、ゆらりと音もなく近づいてくる。  すると下ろしてくれていた岸辺さんが、俺を乱暴に車の中へ押し込んだ。 「おや、どうして彼を下ろさないんですか? 病院まで大事そうに輸送していたのに」 「俺の事を親分やおやっさんと呼ぶ可愛い馬鹿は好きだが、社長は気に食わん。気が反れたから帰る」 「え、ええ!?」  病院の駐車場まで来て帰るなんて、そんな。急展開にびっくりして、話しかけてきた男性を見る。  キツネのような細い目をした優しそうな男性。  ……でもどこかで見たことがある様な? 「お久しぶりです。氷雨君」 「え? えっと」  誰だったか思い出せず岸辺さんを見るが、岸辺さんは不機嫌そうで話しかけれる雰囲気ではなかった。 「惷月堂の八代目を継がせてもらってます。樹雨の友人で、――キミの父、優雨さんにもとてもお世話になったんだけど……」 「え、えええ!? 惷月堂!?」  見覚えがある顔の気はしたけれど、兄の友人に惷月堂の人がいるなんて知らなかった。 「その顔は、何も知らないって感じですね」  クスクスと笑うと、八代目さんは雨で濡れた菓子折を窓の隙間にねじ込んできた。  流石に、これはちょっと変な行動に感じた。 「昨日、キミのお兄さんに聞いたんだ。うちのどら焼きが好きだと。だから待ってた。あげますよ、いっぱい」 「え? え? 兄?」 「だから、二度と来ないでって伝えてくださいね。刑事さんに」  優しく、上品に笑うと、そのまま颯爽と踵を返して歩いていく。  こんな雨の中傘もささずにそのようなことをすれば――異常なんだと分かる。  晴れだったら気付かなかったかもしれない。 「……惷月堂のどら焼き」  嬉しいはずの高級どら焼きが、酷く不気味な箱に見える。 「樹雨って人は、不良ぶってはいたが、好青年だったんだがねえ。今の奴は……あれは同類じゃねえよ」  優しそうに話すのに、不気味で冷たい三日月みたいな目だった。流石に俺でもわかるほど。 「知り合いに老いてはいるが医者がいる。やっぱり家から出ない方がいい。そいつを呼ぶから家で診てもらえ」  そう言うと、すぐにトラックのエンジンをかけて飛び出した。帰りの車内では無言で、演歌が延々と流れる謎のラジオを聞きながら、視界を覆う雨を見上げた。  無言の岸辺さんは、俺を気にかけてくれるから無言なわけで。  ……どうして彼が兄の名を使い、惷月堂の八代目に会いに行ったのだろう。  その八代目が、どうして俺が此処にくると分かったのだろう。  あの濡れ方は、先に待っていたはずだ。首を傾げた俺だったが、家に着いて岸辺さんが携帯で誰かと電話をし出して固まった。 「おお。喜一か。病院に連れて行ったが、吉保にあったぞ」 「っ!?」  電話の相手が彼だと分かって血の気が引く。鍵のない檻の中に閉じ込めたはずなのに、俺が檻から出たとなると、彼のその後の行動が怖い。

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