32 / 71
六、怪雨(あやしあめ) 五
「ふー。凄い雨ですね」
ナイスタイミングで帰ってきた橋本さんに縋る思いで駆け寄ると、チョップされた。
「足が折れてるかもしれない人が走りません!」
まるで子供の様に叱られてしまったけれど、ここは乗っかるしかない。
「折れてるかも分からないので不安です! 今日は泊まっていってくださいませんか!」
ほぼ住み込みに近い感じで手伝いに来て下さっていたこともあり、ちゃんと橋本さん専用の部屋もあることだし。
ここで一人になれば、絶対に彼が来る。
仕事が忙しくなったとか言っていたけど、俺が約束を破ったことを知り、絶対に来る。
「そうしてあげたいのですが、新婚旅行の前に甥っ子たちが妻に挨拶に来たいと今日は家に来ることになっていまして」
「俺もい、行きます!」
「氷雨さんは、個展のお仕事の依頼とお手本書きの仕事と、花の水やりの仕方の本を読んでもらう仕事が溜まっています」
確かに仕事は一杯あるけれど、でも――。
不安に揺れていた俺は、玄関から乱暴な音が聞こえてくるのに後ずさった。
「氷雨さん!」
スーツ姿の彼が、数時間前に会ったはずの俺の名を、血相変えて呼んでいる。
「氷雨さん! 大丈夫だったんですか!? 何もされてませんか!? 岸辺さん、ちゃんと数発殴りましたか!?」
しのごも言わせずに、ペタペタと俺の身体を触る、――ずぶ濡れた彼。思わず後ずさると、足がズキズキと痛んだ。
「――っ」
「どこか痛いんですか!?」
「捻挫じゃねえかな。診察はしてねえけど」
「え?」
彼は滴る前髪を掻きあげながら屈むと、俺の腫れた右足に気付く。
「右足を擦って腫れてる手当をしたのは喜一君でしょ? どうして、氷雨さんの足首の腫れまで気付かなかったの?」
橋本さんが、やんわりと彼を非難すると、畳の上で正座してぐっと唇を噛みしめていた。
「すみません」
「や、君が悪いわけではないから。気にしないで? ね?」
「いえ、俺はあんなによく観察したのに、気付かなかった」
……まあ確かに、太腿まで着物をめくって念入りに調べてた。
上ばっか調べようとしてたし、視覚的に擦って赤くなった部分を見れば他は見えなくなるのだと思う。
「今、俺のなじみの医者を呼んでおいたから。今日はお前が責任を持って守れ」
「今日は?」
岸辺さんは何を言ってるんだろう。で、なんで帰る支度をしてるのか。
橋本さんなんて、もう玄関で靴を履いているし。
本当に無理。
俺が、彼に何をされたか知らないからそんな風に二人っきりにさせようとするんだ。
サーっと真っ青になる俺の顔色なんて誰も気にも留めずに、身支度を整えてしまう。
「か、帰らないで皆さん、泊まっていってください」
「んなことしたら、喜一の面目が立たねえだろ」
立たなくて良い。寧ろ立たなくて良いから二人にしないでください。
「氷雨さん、今夜は何もしませんからどうかお傍に居させてください」
その言葉をどう受け止めていいのか分からず、返事はしなかった。
彼は『今夜』と言った。つまり今夜以降の保障は何処にもない。
けれど、俺には帰っていく二人を止める術もなく、途方に暮れるしかない。
彼が俺の手を肩に回そうとしたので、壁に逃げた。
触られるのが一番怖い。
「兄の同級生に会ったのですが、彼に会いに行った理由は何ですか?」
「……偶然です。貴方が惷月堂のどら焼きを好きだから買いに行ったら、何故か店頭に彼が居ただけです」
彼は、ぽつぽつと落ちる雨のように嘘を吐いた。
今までの俺ならば、それを信じたかもしれないけど、流石に吉保さんの不自然な登場は誤魔化せない。
「君が俺を好きなのも、そんな雨粒が落ちるような嘘ですか」
「それは違います」
「信じられません! 嘘しか吐かないくせに!」
近くに置いてあった、書道教室用の座布団を投げつけるが、彼はいとも簡単に叩き落とした。
「仕方ねえじゃん。こうするしか、あんたを守る方法が浮かばなかったんだから!」
大股で近づくと、彼は逃げる隙も与えずに俺を抱きしめた。悪びれもせずに、彼は俺を閉じ込めた。花びらとともに彼の腕の中へと。
ともだちにシェアしよう!