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六、怪雨(あやしあめ) 八

「すいません」  彼は慌ててドアを開けると、不機嫌そうな大男が仁王立ちしていた。  首元に大きな傷があり、医者という風貌ではない。 「呼び出しておいて待たせるたあ躾けのなってない糞ガキどもめ」 「えっと辰男さん?」 「そうだ。お前か、足を怪我してるってのは」  その大男さんは入口が小さかったのかしゃがんでから入ると、玄関に座った。  その瞬間、古い廊下は大きく軋む。 「この人です。右足が腫れてるみたいで」 「ふん。座れ」 挨拶もなしに、診察が始まったのか、言われたとおりに座った。 「あっ いたっ」 「女みたいな声を出すな。痛みがあるんだな」 「っつ」  いきなり足首を握られて叫んでしまたせいで睨まれた。どうなってるんだ。  今日は次から次へと厄日ではないだろうか。 「折れてはないが、ヒビが入ってるかもしれん。一応打撲の処置をするが腫れが引かない場合はウチで検査して手術も覚悟しろ」 「えええ、手術!」 「んだ? 怖いのか?」  辰男さんという医者は、黒いバッグから処方する道具をテキパキと取り出してきた。  診察に一分もかかってないところをみると、ただの気休めの様な気もする。 「いえ。手術となると家はお金がないので……」  入院中は書道教室を休まなければいけないし、そうなると益々生活が困難になりそう。  三食降りかけご飯も辞さない。いや、橋本さんの奥さんか橋本さんの手料理で飢えは凌げるけれど、手術は生活する上で大問題だ。 「お前、パトロンぐらいいねーのか」 「パッ!?」 「そんな女みたいな顔に、白い足首しやがって。金持ちの未亡人ぐらい騙せるだろ」 「変なことをこの人に植え付けないでください!」  びっくりして、どう言い返していいのか固まってしまう。 「パトロンだなんてとんでもない。お見合いさえ上手くできない身ですし」 「そんな初物を食べたがる未亡人もおるで」 「辰男さん!」  な、なんか苦手な話になりつつあり、どんな顔をしていいのか分からない。  俺は一度だけしたお見合いで、女性の気持ちが分からず怒らせてしまうし常に気を遣うのに疲れてしまっている。  鈍感な俺には大切な人が亡くなり傷つている未亡人を喜ばせてあげるものがなにもない。 「岸辺や橋本が甘やかす坊ちゃんだから心配して言っただけや。自分で生活せんと、そこのガキに転がりこまれるで」  笑えない話に愛想笑いさえ出来なくて、俺は沈黙を貫いた。 すると処置を終えた辰男さんは家の中を見渡す。 「それと、正座はやめとけ。椅子はないんか?」 「椅子は、……勉強机なら兄の部屋にあるかもしれません」 「樹雨さんの部屋?」 「はい。二階に――」 「は? この家、二階があんの!?」  彼は驚くと辺りをきょろきょろ見渡しだした。  二階とは言っても、押し入れの上の戸を外して入る、物置部屋みたいな狭い部屋だ。  兄が生きていた時は、押し入れに梯子を置いて登っていた。  一階は、父が書道教室をほぼ毎日していたので、気が休まれないという理由からだ。 「……なんで俺に教えてくれなかったんですか」 「なんで君に教えないといけないんですか?」  未だに俺は彼の身勝手な行動に怒ってるんだけど。 「ああ、檻に閉じ込めた愛玩動物が勝手に部屋を作ったのが気に食わないと。ふうん」 「……くっそぅ」  俺に怒れないらしくプルプル震えているのが滑稽だった。 「仕事もあるだろうし、お前、二階に椅子があるか見てこい」 「……はい」 「ほら、お前さんはこっちの擦ってる部分も見せてみろ」 Side:喜一 「あっ いっ だ、だめっ」 「職業柄、肩の凝りが酷いな、お前さん」 「いたぁぁっ」 「静かに治療してくれませんかね!」  押し入れから逆さまに顔だけ出して、氷雨さんを見る。  布団にうつ伏せになって寝転がる彼は、辰男さんにマッサージされていた。  されているのはいいのだけど、痛がる声が……その非常に艶めかしい。  可愛すぎて、あのクマみたいな男が欲情しないか心配だ。俺だったらマッサージのふりして色々と触ってしまいそうだし、実際に前回必要以上に触ってしまった前科がある。  気が散りつつも、氷雨さんはマッサージに夢中でまったく俺なんて見ていない。 ……こんなに氷雨さんのために頑張ってるのに、どんどん嫌われていて胸が苦しい。  でも、好きならば守りたいと思う。  好きなら言ったら駄目なことぐらい分かってる。  二階に上がって埃臭い真っ暗な部屋を、四つん這いで歩く。  天井が狭いので、多分立ち上がったら頭を打つだろう。 壁を手探って電気を付けると、折りたたみベットと机、そして箪笥が壁際に詰めて置かれているのが見えた。  箪笥も机も何も入ってないし空っぽだった。だが、氷雨さんには見せられないものがあった。  埃臭い薄暗い部屋で、それはあまりにも異質だったからすぐに俺でも気づけた。  氷雨さんのお父さんが整理したんだろうし、足の悪い氷雨さんは暫く此処にはやってこれない。いや、氷雨さんはいくら兄が亡くなったとはいえ、無断で人の部屋に入る人じゃなさそうだ。  だから、写真には気付かない。  ベッドが置かれていたであろう場所の天井に、ペタペタと写真が貼られている。  氷雨さんにあまり似ていない。線が細くてか弱い氷雨さんとは正反対の、生意気そうな笑顔の青年が写真の中に閉じ込められている。  写真の中の樹雨より、もう俺の方が年齢が高くなってしまったのか。  化粧の厚い、キャバ嬢みたいな睫毛バッシバシの女と、惷月堂の吉保と三人で写っている写真が多かった。  悪いけど、大事な証拠なので一枚貰っていこう。 「んんっ 痛いっ」 「……お楽しみのところスイマセンが、ありましたよ」 「え、あ、ぃああっ」 なんて声をあげるのだろう。  思わず説教したくなるぐらい色っぽいんですけど。

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