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七、甘雨(かんう)  一

 書道教室の終わりに、皆で花壇を完成させるのと同時に屋根の修理が終わった。  絶対安静の俺のせいで、皆のお稽古もいつもより時間がかかってしまう。  書けた子のテーブルまで行って、赤を入れる作業では、わざわざ借りてきた松葉杖を使って移動し見て回る。  これが意外と大変なんだ。ケンケンで歩こうとしたら軸足が痛むからと松葉杖が必須らしい。  でも子供たちも分かってくれて、数日で慣れてくれた。  雨が降っては止み、じとじとした嫌な時期。湿気でじとじとする俺の家では、風呂場にナメクジが現れた。  野生のなめくじを、仲間にすることは出来ず、この時期が一番憂欝かもしれない。  彼は本当に忙しいのだろう。  この一週間、岸辺さんたちもいるからか姿を見せなかった。  代わりに俺と橋本さんと子どもたちで、壁に添って作った花壇が完成していた。 「明日、また雨って言ってたから、今日土入れたら柔らかくなるよ」  彼が俺にくれた初心者向けのガーディニング本は、子どもたちが読みこんですっかりボロボロだった。 「ひまわり植えるでしょ、余った部分は何を植える?」 「せんせー、びんぼうだし、栄養があって大量につくれる野菜がいいんじぇね?」 「……ごほん。気使い御無用です」  と言いつつ、机の引き出しの中に人参と枝豆の種を隠したのは内緒だ。 「んまあ。騒々しくなったわねえ」  パタパタと扇子を仰ぎながら、俺の家に一人、訪問者が来た。 「華樹院(かじゅいん)先生」 「やあね。こんなボロイ家、修理しても無駄でしょ? 取り壊しちゃいなさいよ」 日本で五本の指に入るという、有名な書道教室『華樹院塾』の創立者。  日本書道美術館展受賞経験は日本で一番多く、現在は日本書道美術館展 審査会会長を務める。  ……書道家の女王みたいな人だ。勿論、歩き方から言葉使いから全て綺麗で洗練されてるけれど、俺は苦手だ。  その昔、父が借金を背負っていると聞き、肩代わりする代わりに、俺と華樹院さんの娘さんのお見合いをさせろと言われた。当然父は断ったのだが、父と言う壁が無くなってからは毎年この時期にやってくる。  俺が一度お見合いで失敗した話も伝えたのに、こうやってアポなしでやってくる強かな部分もある。 「今年はどちらも引き受けませんよ」 「あら、私はまだ何もいっておりませんのに」  赤いフレームを押し上げながら、扇子で口元を隠して笑う。 「個展に出品か、審査員参加か、でしょう。ですが全治一カ月の身ですので」  座っていた俺は、足を押さえた。 「あら、怪我? 大丈夫ですの?」 「……大丈夫だとは思いますが、絶対安静です」  ちょっとだけ、病状を盛ってしまった。  けれど、そうでもしないと、彼女は引きさがらない。  毎年、どちらかに参加してほしいと来るし、断っても何度も何度も来る。  けれど、引きうけても打ち合わせとして、頻繁に会わなければいけない。  書道教室と掛け持ちするには、人見知りの自分には少し大変だった。 「そうですの。どうしましょうか……。今年は絶対に引きうけさせようと思ったのに」 「すいません」 「華樹院さん、上がってお茶でも飲んで下さい」 「あら、すいません。橋本さんはお時間あるのかしら?」  今度は橋本さんを勧誘しだしたけれど、甘いマスクを崩さずに橋本さんも逃げている。  今年は何とかなりそうでほっとした。 「まあ、美味しい。紫蘇ジュースですわね。甘さも丁度いいわ」 「今日は子どもたちと一緒に作ったんですよ。それに大工さん達も来てますし」  花壇を作ってくれる子どもたちにささやかなお礼を兼ねて、一緒に料理をしてみたところ、楽しそうだった。  これからは時間があれば一緒にしていきたいと思う。 「氷雨さん、書道教室の子どもも勿論可愛いけど、ご自分の子どもはどうするの? もう30歳になりますわよ」 「……あはは。まだまだ修行の身ですので」 「この家を壊して売って、公民館で子どもたちを教えたら、借金もなくなりましょうし。それに」  華樹院さんは満面の笑顔で、何か袋から出してきた。  それは過去にも見たことがあるお見合い写真の冊子だった。 「良い子がいましてね、短大を今年卒業する予定の子ですが」  短大を今年卒業って、彼より年下じゃないか。  30歳手前の俺に、20歳の女性なんて犯罪だ。

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