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八、天気雨 一
Side:桐生 喜一
「くっそ」
ぐしゃぐしゃにした缶ビールを壁に投げると、小さく悪態を付いた。別に雛菊が現れても焼きもちなんて妬くはずない。分かってた。
氷雨さんが、自称『筆下ろしした少年』であるはずの俺を『隣の悪ガキ』だと認識していないのも薄々分かっていたから、言っても傷つくから言わなかっただけなのに、自分で言って見事に散った。
氷雨さんの唇はしっとりと温かかったのに、何度キスしても身体がどんどん冷えていくだけだった。
憎めるのならば憎みたいとさえ思っていた。
「私に『報われないけど好きな人が居る』って言ったでしょ?で、学校の帰り道とかよく遠回りしてた」
「……雛菊」
一人になりたかったのに、許可ない侵入者に眉をしかめてしまう。
「鍵は喜一くんのお母様からお借りしたよ。お母様はまだ私と喜一くんが結婚すればいいと思ってるから」
お嬢様である雛菊は、上品なロングスカートに白のブラウス。ふんわりと巻いた髪を揺らしながら俺の背中にくっついてきた。
「ずっと見てたんだ。だから叶わない相手が誰か分かった。綺麗よね、確かに。なんか急に消えてしまいそうな儚い人」
「なんだよ。お前は俺の中では友達ぐらいしか思ってないし」
「でも、喜一くんの家に入っても怪しまれない立場であり、彼の保険金を氷雨さんに聞いてもマナー知らずの若い女の子で済まされちゃう」
クスっと小さく笑うと、雛菊は俺の横に座った。
そしてグシャグシャに潰した空き缶を見て、可哀相に、と呟いた。
「私に氷雨さんが保険金を一杯持ってるって教えてくれた人が、今日、私に喜一くんの家の鍵を取って来いって言ってきたの。私なら喜一君の親と仲良いし公認だし」
「……お前」
隣に座っている雛菊は、俺の知っているめそめそ泣く女じゃなかった。
うっとおしいけれど、邪魔にならない程度にひっついてくるし、頭は確かに良かったけれど。
「喜一くんが吉保義兄さんを嗅ぎまわり過ぎたんだよ。――あの人も貴方の身辺を狙ってる。唯一の誤算は、私と喜一くんが恋人同士だったと思いこんでいること」
「思い込んでるってお前がどうせそう言ったんだろ」
「そうだよ。でもさ、喜一くん。私が吉保義兄さんの味方に着いたら不利よね。私は貴方の事一杯知ってるし、貴方の弱点も分かってる。――吉保義兄さんと邪魔な人も同じだし」
……最悪だ。吉保のことは俺に手を出してくるとは思っていたけれど、まさかこいつを使ってくるとは。
しかも俺が冷たくすれば、全部氷雨さんに降りかかってくるんだろうな。
「それに、氷雨さんって喜一くんに全く興味もなさそうだしね」
俺の肩に凭れながら、上目遣いで俺を見る。
「……喜一くんに刑事なんて似合わないよ。悪ガキだったけどパパが喜一くんの度胸とか頭の回転の良さとか、家柄とか合格だって言ってる」
「嬉しくねえよ」
「あのね、お姉ちゃんが吉保さんと結婚してるでしょ? だから吉保さんが黒いことしてても、お父様がもみ消しちゃうと思うよ? お姉ちゃんが大切だから」
八方ふさがりってことか。だから吉保は俺や氷雨さんに挑発的だったのか。
「でも、お父様が気に入ってるのは、喜一くん」
「……」
つまり俺が先にこいつの親父に取り入ればいいってことか。
「下らねえ」
パシュっとライターで火を付けて、数か月ぶりに煙草を咥えた。
くだらねえ。
雨のせいで上手く外に出てくれない煙草の煙の様に、上手く言ってはくれない。
「……雛菊」
俺は、氷雨さんにこの先嫌われることはあっても好かれることも無く、この思いを持っていかないといけない。
ならば、と雛菊を押し倒した。
「ここまで打算的だったなんて、可愛い顔して怖いのな」
今まで可愛い幼馴染のふりをしていた雛菊に俺は容赦しないことに決めた。
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