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八、天気雨 三
「……勝つとか勝たないとか身分とか、俺はそんなのにあまり頓着がないので、大丈夫です。その……お邪魔しました」
深々とお辞儀してその場を去る。一刻も早く立ち去りたかった。
彼は追いかけてこなかったけれど、乱暴にドアを閉める音がした。
ちゃんと彼女を好きになったのならば、俺がどうこう言う必要はない。
俺の触れた彼の手が、彼女にも同じように触れて、
彼が俺の服を割り、恥じらい赤くなった肌を無理に開けたあの時の様に。
優しく彼女に触れたのだと思うと、漸く俺の中で何かがじわじわと心を染めていくをの感じた。
俺を好きだと言ったのに。
でも俺は彼を傷つけた。
俺は冷たい人だから。
でも彼はそんな俺にキスをした。
ぐちゃぐちゃした思考の中で、一つだけ芽生えた感情は、俺に涙を流させた。
雛菊さんにあの手が触れたと思ったら、涙が込み上げてきた。
俺は彼が好きではないのに。
そう、俺の中で隠されていた傲慢な気持ちが、勝手に涙を流させたのだ。
その日から雨が止んだ。
俺は梅雨明けが何時からなのかを聞き忘れていた。
彼の事を蔑ろにして呑気に生きて来た私の性格そのものだ。
梅雨明けの知らせで、漸く彼が心の中で毎日泣いていたのだとしったのだから。
「どうしたんですか? 氷雨さんに真面目な顔って似合いませんねえ」
午前中に一度だけ、橋本さんにそうからかわれたけれど、墨を倒して盛大に零してしまったのでそれ以上追及されなかった。
爪の中に入った黒を眺めても、何故だが綺麗に洗いたいと思う気力はなかった。
何故俺は今、こんなにも凹んでいるのか。その答えを自分で見つけきらなかった。
お手本を仕上げ、子ども達の段級試験に送る作品を選び、子ども達のレベルに合わせたコンクールの一覧表を眺めてみたりした。
「氷雨さん、なんとクール便でごちそうが届きましたよ」
そうめんを頬張ったお昼に、大きな発砲スチロールが届く。
華樹院さんからのお詫びの品として伊勢海老だのタラバカニだのウニだのアワビだの、テレビの中でしか見たことのない高級食材がぎゅうぎゅうに押し込められていた。
おかげで、次の書道教室の時に皆で食べようと思ってたポッキンアイス(橋本さんはチューパットと言っている)が、冷凍庫に入らない様子だった。
「かに鍋でもして、朝は温めて卵とご飯を入れてカニ雑炊とかできますね」
「カニとか俺、食べたことあったっけ? ってか伊勢海老は入らないから橋本さん持って帰ってください」
「伊勢海老を下さるなんて、熱でもあるんですか?」
「俺一人じゃどっちにしてもこんなに食べられないし」
華樹院さんにこんなに要らないと断ったところで臍を曲げられると厄介なのは変わらない。
これで水に流した方がいいのは分かっている。
問題は俺が食が細いことと、生ものを置くスペースが足りないことだ。
「では、喜一くんの家の冷蔵庫でもお借りしましょう」
「絶対いけません!」
慌てて伊勢海老を奪い返す俺を、橋本さんが細めた瞳で見る。
「喜一くんと何かあったんですね?」
「別にないです。いや、顔を合わせたら毎回、何かあってましたが」
「……私もちょっと氷雨さんにはっぱかけ過ぎましたよね。すいません」
「いえ。違うんです」
違う。けれど、違わない。
ただ自分の気持ちが纏まらず、橋本さんにさえ伝えるのは無理だった。
「これは岸辺たちと一緒の鍋パーティでもしてから今日中に食べるのもありかもしれませんね」
「そうですね」
煮え切らない返事を返して、俺はへらりと笑うと味を感じない素麺を飲み込んだ。
「……あの、橋本さん」
それでも一口で、俺の口は食べるのを止めてしまう。
「その……彼はもう此処に来ないかもしれないです」
「それは良かったですね」
パキンと良い音がして、良く見れば、橋本さんがカニにハサミで切りこみを入れていた。
夜ご飯の仕込みを始めてくれたらしい。
「良かった……?」
「はい。氷雨さんはあの人が来ないことを望んでおられましたから。良かったですね」
「……そうですよね、良かった」
ポトンと落とした言葉に、何故か俺はすっきりしない引っかかりを感じた。
「私が渡しておきますよ。刑事って仕事は忙しいらしくて。こうやって自分が居ないときは岸辺さんを寄こして、甲斐甲斐しい人なんですがね」
橋本さんの口ぶりでは、彼の事をフォローするというより悪ガキの成長にしみじみしている様子だった。
「変ですね。いきなり現れた彼が煩わしかったのに。……すっきりしないなんて」
「美味しいものでも食べれば、どうでも良くなるかもしれませんよ」
いつもと同じ橋本さんの口調。
確かに兄の保険金がどうたら言われても、俺には意味が分からないし。
岸辺さんが屋根や家のぼろい部分を補修して、花壇が完成するころにはもう彼が此処に来る理由はなくなるだろう。
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