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八、天気雨 四
Side:桐生 喜一
実家に帰るのが面倒臭くて、雛菊の家の壁から伝うように中に入った。
じいさんが議員しているのは本当だが、両親は冷め切っていて昔は離婚するかしないかでいつも俺を押し付け合い、それを見ていた俺は荒れた。
親とは口も利かなかったし、学校には行ったり行かなかったり。
ばあさんに預けられたのは、その頃からだった。
ばあさんは平民、じいさんは由緒正しい桐生家のおぼっちゃま。
嫁いびりする屋敷の者から守るために一時的に、氷雨さんの家に身を寄せていた。
が、じいさんが桐生家の癌を全て排除し、愛するばあさんと暮らせるために努力したかいがあって、今は戻ってきている。
結局、じいさんの体裁が悪いということでうちの両親も離婚を強く反対され、この家にたまに帰るか帰らないかのはず。
だから俺は家に帰りたくはなかったが、壁から飛び降りて向かった先は、ばあさんの部屋がある方だった。
俺の家も古き良き昔のお屋敷って感じで、本当に旧桐生本家の跡地で、倉庫など歴史的価値があるものは岸辺さんたちがメンテナンスしてくれている。
「ばあさん、入るぞ」
縁側から靴を持って入ってきた俺に、ばあさんは驚きもせずに読んでいた本を閉じる。
「あんた、また玄関から入って来なかったんかい? 自分の家なのに」
「うっせ。ばあさんにしか用がねえんだからいいだろ。墨借りていい?」
「はいはい。アンタは零すから新聞紙敷いて使いんしゃい」
「ガキじゃあるまいし」
「こそこそ入ってくる人間が一人前なもんかい」
おっとりした声でばっさり毒付くんだから嫌になる。
墨を擦り始めるとばあさんはまた本を読み始めた。
俺も擦りながら今朝のことを思い出した。
雛菊はやっぱりどう考えても女としてじゃなく妹としてしか見れない。
だが面倒だし、氷雨さんに火の粉どころか放火しそうだ。俺が吉保を挑発したから、あいつも動いたせいなんだけど。もっと刑事事件で逮捕できるぐらいの大きな動きを見せてほしくて動いたのに。
こんな事をされるとは思わなかった。
「あんた、それぐらいでいいんやないかい?」
「うわ」
水を足しながら擦っていた墨がいつのまにか溢れてしまっていた。
「わざわざ小筆なんかで何か書くかしらないけど」
「氷雨さんに、『月が綺麗ですね』って書こうと思って」
「んま! あんた、やっぱ雛菊さんみたいな可愛い子に眼中ないと思ったら!」
なぜかばあさんは目を輝かせて身を乗り出してきた。墨がこぼれないように机を押さえる。
「そ。まあ俺の事なんかばあさんぐらいしか興味ないと思うから、どうでもいいだろうけど」
「あの人のお爺さんが、氷雨さんそっくりで線の細い美形でねえ。私もじいさんと氷雨さんのお爺さんの間で揺れたのよねえ」
しみじみとばあさんが昔を語りだすが、これは長い。
結局、ばあさんは一人では心配な爺さんを選んだって落ちはもう何百回も聞いたし。
ばあさんの昔話を背に、縁側に映る月の影。
嫌いたかった。嫌われても良いから俺を見てほしかった。
その溢れる気持ちを、氷雨さんに言われたとおり文にする。
『貴方を見た時から、月が綺麗すぎて堪らない』
飾ろうと思った言葉だったのに、必死すぎて笑ってしまう。
「これ、ばあさんから渡すってできる?」
「何を言うんだい。隣に住んでいるのはアンタだろ。自分で渡しなさい」
「……そうなんだけどよ、今すぐ見てもどうにもならねえんだ。だから、時が来たら見てほしい程度の言葉なんだよな」
今見ても、雛菊を選んだ男だと思われて終わりだ。
雛菊も酔って服を乱しただけで何もしてないことが、今ばれるのは得策じゃねえ。
だから、解決した時にぽとりと足元に落ちて気付いてくれたらいい。
「よし、やっぱ俺には頭脳戦は無理だわ。手っ取り早く、吉保ぼこぼこにして、氷雨さんに近づかないようにしてやろう」
「……あんたねえ」
「氷雨さん抜きでもあいつ殴ってやりたいし」
「止めときなさい。氷雨さんは母親が亡くなった時に――」
ハッとばあさんが思い出したかのように口を噤んだ。
「母親を亡くした時、何だ?」
「……取りあえず、私はその手紙は受け取れない」
「ばあさん!」
つい大きな声を張り上げてしまい、ばあさんは観念したかのようにため息を吐いた。
「弱い人なんだよ。あんなに大事にされていたのに、お母様の記憶もお兄さんの記憶も、関わりが無かったか曖昧だという記憶に上書きされたみたいで……」
「は?」
「だから、辛いことから自分を守るために、記憶が飛んじゃうの」
自分の身を守るために記憶を改変するってことか。
でも、誰にも助けを求めず、内に秘めている氷雨さんが自分を守る術はそれぐらいしかないかもしれない。
「……そんなの俺、知らなかったし」
「多分、彼自身も知らんはず」
ばあさんのその言葉に、少しずつ何か納得がいくような気がした。
「俺が隣の家に夏の間だけ預かられてたガキで……って記憶が無いってことだよな」
「……さあ。知らないね」
「じゃあ、やっぱその手紙、自分で渡す」
「最初から配達なんてしてあげるつもりは無かったから安心しなさい」
母親を亡くし、兄を亡くし、――寄り添って生きて来た父を亡くし週に三度だけ子どもたちに書道を教える。
慎ましくまるで晩年のようにあの家から出ない氷雨さん。
急に愛おしくなった。
悲しいぐらい、繊細な氷雨さんが堪らなく愛おしい。
俺はあの人を家に閉じ込めるだけで守った気でいた。
その行為は、ただただ花びらの海に溺れさせるだけの、自分勝手な行為だ。
氷雨さんのことを思うと、泣き出しそうな恋情が胸を支配してきた。
だけど、今はその檻の中で愚痴も不満も言わず、のんびりと手をかざし花びらを受け止めるだけで、幸せそうな氷雨さんが悲しい。
会いたい。
例え、彼をとりまく環境が、彼を傷つけるだけだとしたら俺だけは彼を傷つけてはいけない。
傷つけてはいけなかったんだ。
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