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九、曇天雷雨 三

「これ……」  綺麗な字だった。癖も無い、雨の様に真っ直ぐに地面に流れるような、緩やかな字。 「だけど、筆が痛んでる。跳ねがバラバラで勿体ないなあ」  なんて職業柄、そんなことを思ってしまった。  彼の字なのかな。俺は、彼の字を知らない。  昔、筆下ろし事件の時にちゃんと喜一くんの字を見てあげていたら、こんな未来になってなかったのかもしれない。ふとそう思ってしまった。  誰に宛てたのか分からないが、以前俺が文を書けと言ったことを忠実に守っているのかな。  こんなにも冷たい俺の為に?  そう考えたら手紙を持つ手が震えた。  この手紙は……喜一くんの心を映した鏡みたいだ。  前後にどんな内容や経緯があったのか教えてくれない。ただ一番大事な気持ちしか伝えてこない。  それはきっとこれからもそうなんだろう。そう思うと、俺は車の中でじっとしていられない。  俺の家の、俺のことを、今、喜一くんは俺から隠して俺を守ろうと俺の事ばかり考えてくれているんだ。  出ようとしたら、助手席のドアが開かなかったので、隣の運転席に乗り移ってからドアを開けた。  その時に着物が何かに引っかかったので思いっきり引っ張った。  一応壊れていないか、カチャカチャと色々弄ったが多分大丈夫だろう。  そのまま松葉杖を持ち、壁を伝って中を覗く。 「痛ぇな! てめえ俺に手を出したらどうなるか分かってるんだろうな!」  怒鳴り声が聞こえて思わず身が縮こまった。家の中から言い争う声がする。  怒鳴り声って委縮してしまうから苦手だった。 「言えよ。どうなるんだ」 「てめえなんかウチの組の――」 「はい。逮捕。一言でもヤクザの名前出して脅迫したら俺たち刑事はお前に任意同行してもらう権利があんだよ」  カチャンと手錠の音が響く。怒鳴り声は誰か分からなかったけれど、冷静な声は喜一くんだと分かった。 「樹雨の弔いのつもりかよ。あいつだって俺と同じだ。一緒に傘下に入ったくせに自分だけ足抜けして、蕎麦屋で働き出しやがって」 「へえ。それは知らなかったかも」 「足抜けが簡単に出来るわけねえよ。蕎麦屋のこいつだってうちの幹部だってのに。そうしたら身の危険を感じたんだろうな。ひょいっと行方を暗ましたかと思ったら、身一つ以外何も持ってなくてよ」  心臓が喉から飛び出してきそうな、二人の話し声が心臓の音でどんどん遠ざかっていくような、足がふらふら倒れてしまいそうな――。  何の話をしているのか、俺には理解できなかった。いや、理解したくなかったのかもしれない。 「結局俺は親父に足を洗うための金を払ってもらったが、こいつら……こいつら、八代目に就任した途端、家族にばらすって脅して来やがって」 「そんなもんだ。お前が粋がって飛び込んだ世界は。アンタと樹雨さんの間に何があったか知らねえけど。俺が許せねえのはそれじゃねえから」 「弟の事か?」 「決まってんだろ。お前達の起こした事故の借金、全部あの人の未来を奪ったんだから。樹雨さんの保険金はあの人のものだ。邪魔者は俺が全員――」  喜一くんの声は、雨の様に冷たく、雨の様に静かで、そして力強い。  ……俺を此処に閉じ込めた理由。  二人の会話で分かる様な分からないような。  無いお金の話をしても仕方がないのに。兄さんがぱあっと全部使ってしまったって線もあるのに。  そう思って話を聞いていた俺の腰に、何か冷たいモノが当たった。 (え――?)  恐る恐る振り返ると、何故か止めたはずの喜一くんの車が、俺の方へどんどん進んでいく。 「うわあっ」  小さく叫んだ俺の声を、喜一くんは聞き逃さなかった。 「氷雨さん!」 「喜一くん」  すぐに力強い腕が伸びてくる。  ――最初に縁側を踏み壊したときと同様に、引き上げられる。 「……? 俺、エンジン切ったしギア入れてたのになんで車が動いてるんだ?」 「わ、ごめんね。もしかしたら俺の着物が引っかかった時に……」  言い終わらない内に、喜一くんは何か気付いたのかハッと車の中を見渡した。 「すぐ終わらせるから、ここから動かないで」 「う、うん?」  でも車は止まらずゆっくりと進むと、俺の家の壁の割れ目の前に置かれていた花に突っ込み割れ目にタイヤが挟まると漸く止まった。でもうちの壁は古く脆いので、一時的に止めたに過ぎない。  壁が崩壊されないといいんだけど。  ブレーキが壊れてる?  でもさっきまで喜一君が運転していたのに?  呆然としていると、裏口の方に車が止まるブレーキ音が聞こえてきた。 「は、入りますよ!」  自分の家なのに、またここで止められたことに気づき中へ飛び込んだ。 「え、あれ?」  けれど中に入ると、喜一くんが裏口を閉めている背中しか見つけられなかった。 「今、誰かと争ってたよね?」 「何もなかったですよ」

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