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九、曇天雷雨 四
「嘘だ!擦りガラスも割れてるし、君の大声も聞こえてきた! 足抜けがどうたらとか!」
「いいえ。何もありませんでした。氷雨さんの幻聴です」
「嘘です!」
エンジンの音がする。慌てて裏口へ向かうが、喜一くんが扉の前で俺を阻んだ。
橋本さんが、この場で争っていた誰かを車に乗せてどこかに連れて行った?
それにしては不自然な状況だった。
「退いて下さい」
「氷雨さん、本当に何もないんです。今日、何か聞こえたこと、あったこと、……全て忘れてください」
そんな理不尽な提案に乗れるわけはなかったが、喜一くんの意思は固そうだった。
「そうですか。分かりました」
だから俺はにっこり微笑む。
「君がそんな態度をとるなら、俺も俺で考えます」
「え、あ、氷雨さん?」
「忘れます。気にしないでください」
にっこり笑顔を貼りつけたまま、居間へ戻る。すると慌てた様子で喜一君が追いかけてきた。
「あの、その、俺たちの声、どれぐらい聞こえてたんですか?」
「知りません。何も聞いてません」
ふいと顔を背けたら、前に回り込まれた。押してダメなら、逆に無関心を装うとした。
けれどその明らかに不自然な俺の態度に、喜一君が慌てているのが分かる。
「着物の帯を緩めたいので、向こうを向いていて頂けますか?」
「氷雨さん……」
素直に後ろを向いた彼を確認し、周りを見渡す。
開け放たれた押し入れの扉。兄の部屋に繋がる天井が少し開いている。
俺の仕事用のテーブルも斜めになっていたし擦りガラスが割れて鍵が壊されていた。
――それなのに、俺の家なのに。
喜一くんは関係ないと押し通し隠そうとするならば、俺は逆に何も興味が無いふりをしてみれば……彼が心配するはずだ。
「喜一くんは、俺の傍にいるつもりですか?」
「今日はそのつもりです」
俺が何を言わんとしてるか分からず、きょとんとしながら彼はそう言った。
「一生一緒にいたい相手にならば、嘘は吐かないはずですよね?」
「当たり前です!」
振りかえってきた彼は、俺が着物の帯を解き割れ目から肩に着物を落とす姿を見て、また前を向き直った。
「では、一生一緒に居たい相手は俺じゃないんですね」
最期の賭けのような、自分でも上手く言えない衝動的な挑発だった。
「一生傍に居てくれるなら、俺は真実を一人だけで飲み込みます」
「え?」
思っても居ない返答で面食らってしまった。俺は間抜けな顔をしていたかもしれない。
「一生俺は、何もなかったのだという嘘を貫きとおして真実に変えてしまいます」
「……」
そんな言葉が欲しかったんじゃないんだけど。
「じゃ、あ。もう俺はこの家という檻の中から解放されてもいいんですか? もう何もなかったってことは」
「いえ。ここにあるんです。消えた樹雨さんの保険金が。だから此処から出ないでほしい」
「無茶苦茶です!」
一生一緒に居たいだの嘘を貫き通すだの、彼は色々理由をつけているが、俺はさっき話を大体聞いていたんだ。
隠せていない。
それでも君が隠した気持ちになりたいのならば、一生知らないふりをしてあげることもできた。
俺はその決意もあった。
なぜなら君があの時、俺に真実をぶつけてくれたから。
飛び散った墨を戒めに俺は生き抜こうと――。
「ちょっと待って」
「氷雨さん?」
「その話は後です。ちょっと待ってください」
「どうしたんですか!?」
……起きたら、墨の汚れが移動していた。移動していたんだ。
確かに布団から手を伸ばせばその墨の汚れがあるはずなのに、汚れが反対側に移動され俺の足元に発見していた。
そして……この前、少し畳の盛り上がった場所で俺は躓いた。
「素人が畳を持ち上げて、移動させたんじゃないかな。――ここ」
「氷雨さん、待って。どういうこと?」
「この畳。誰かが一度持ち上げたんじゃないかなって」
仕事用のテーブルは、さきほど何かあったのかめちゃくちゃに散らかっていたが、畳は相変わらず少し不自然に盛り上げっている。
「――は? まさか、こんな、ウソだろ」
喜一くんは少しよろめいた後、畳を踏んで感触を確かめた。
「もしかしたら、死体が埋まっていたり」
「ば、馬鹿じゃないですか!」
「……なんで気づかなかったんだろう。確かにここだけ不安定だ」
「ここは俺がほぼ居るから誰かが畳を開けるなんて思いませんし」
「俺、縁の下から入って確かめて見――」
「そんなことせずに、開けてしまって下さい」
テーブルを隅に寄せようとしたら、混乱していた喜一くんは落ちついたのか代わりに寄せてくれた。
閉じこもって仕事をしたり、お手本を書いたりするテーブル。
書道教室は襖を解放して、こちらに完成した作品を持って来てもらったりする。お稽古が無い日は、ここでお手本を。
はっきりいって、この家から出たことがない俺にしてみれば、信じられない話だった。
だから早く真相を確かめてほしいと思った。
橋本さんは帰って来なかったけれど、喜一くんが畳を持ち上げた。
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