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十、小糠雨(こぬかあめ) 一

『あいつムカつくからぶん殴ってやったよ』  ランドセルを縁側に放ると、兄さんは誇らしげに言った。 『あいつって』  喧嘩が強いのに、俺に優しい兄さんが俺は好きだった。  いつも自信満々で颯爽と歩いているし、人の輪の中心にいるような人。 『吉保だよ。お前の入賞した習字、俺でも書けるとか言うんだぜ。むかつくから殴ってやった。ちくられたら喧嘩って済むように一発殴られてやった』  そう兄さんは言うけれど、どこも顔は殴られた跡は無かった。 『そうそう。惷月堂の吉保くんですね。是非、うちで字を習いたいって旦那さんが電話してきましたよ』 『ふん。俺に殴られて悔しかったのか。おい、氷雨、お前の方が先輩なんだからコテンパンにしごくんだぞ』 『……書道に上も下もないよ』  あまり喧嘩しないでね、と服の袖を掴んだ見上げた。 すると兄さんはにこっと笑って、『お前は俺が守るから心配すんな』と頭を撫でてくれた。  自慢の兄だった。いつも、俺を一番に考えてくれていたのに。  なのに、俺は兄の記憶さえ曖昧になっていたんだね。 『好きだ。――お前が好きだ』  畳に押し倒されて、唇を奪われた。  驚いた俺が硬直していると、兄さんは俺の両腕を畳に貼りつける。 『義母さんにそっくりな、綺麗な顔』  俺はその時まで、兄と自分が母親の違う兄弟だとは知らなかった。知らされていなかったんだ。  舌が頬を撫でる。  悲鳴をあげようにも、歯ががちがちと震えるだけだった。 『兄弟で何してんの?』  縁側から声がして、兄さんが俺の上から退いた。 『お前ら、気持ち悪いな』  見下す様に兄さんを見る吉保さんは、にやにやと不気味な笑顔を貼りつけていた。  自慢の兄だった。  なのに、他人からそんな顔で見られるなんて嫌だった。 『練習です。兄さんが彼女を押し倒したいって言うから、練習してただけ』  何事も無かったように告げた。  忘れようと二度とそんな事が起こらないようにと。  俺は理想の中に兄との記憶を隠して、それからは橋本さんの後を追い、兄さんと二人きりになることを避けた。  兄さんが家に帰ってこなくなったのは――俺が避けたから。  俺が。 『すまん、昔の事は忘れてくれ』  ひょいっと家に戻ってきた兄さんが俺に笑う。  その笑顔が、傷ついた心を隠しているのが分かったけれど、どうしていいのか分からない。  ――俺は兄さんに告白されてから、その感情から逃げていた。  誰も好きになれないぐらい、意識していた。 『お前の母さんが身体が弱かっただろ? だからお前に俺の保険金解約するから渡す。ちゃんとした金を整えたくてさ』 『大げさだよ。それに俺はそんなに身体弱くないし』 『悪い。俺も時間がねえからお前の意見は聞いてやれねえんだ。俺や親父が居なくても、お前が不便しねえように』  そう笑うけれど、本当は違うんじゃないかなって疑問が沸いた。  兄さんは金の心配をさせず、俺をここに捕らえようとしたんじゃないかな。 自分のモノにならないならば、ここで閉じ込めて守ろうと。  ひらひらと縁側に花びらが散る。  俺がずっと兄さんの気持ちから逃げていた分、気づいたら庭にも縁側にも花が散っていた。  芽生えたばかりの艶々した花びらが、誰にも知られることなく散っていく。  その花びらを受け止めようと手を伸ばしても、もう遅い。  手で掴めることは無く、全て落ちて、家を覆い隠して行く。  真実は、誰にも言えない花びらの中。

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