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十、小糠雨(こぬかあめ) 三

Side:桜雨 氷雨  小さな花が咲いた。この名も無き花はなんだろう。  朝顔も咲いた。向日葵もあと数日で花が咲く。  花で埋め尽くされて、俺は埋もれていけばいい。 「氷雨さん」 「喜一くん……」  先日、車が突っ込んだせいで修理中の壁から、悪びれもせずに彼が入ってきた。  兄の事でいろいろと思いだし始めていた俺は、彼との衝突も有耶無耶にしてしまったままだった。  色々と事件の処理に追われているらしいとは聞いていたけれど。 「落ち込んでるって聞いたんですが」 「うん。でも――内緒です」  兄の事は、言えない。言ってはいけない気がした。 「そうだ。君に返そうと思って忘れてました」  車の中で見つけた手紙を彼に渡すと、怪訝そうな顔をされた。 「その手紙の意味、分かってます?」 「そうだね。今、分かったよ」  兄の事を考えて耽っていた俺は、喜一くんが来て、月が綺麗に輝きだしたのを感じた。 「兄の様に、後悔したらいけない。もう同じ過ちはしたくないなって思ってた」 「氷雨さん」  隣に座った喜一くんに、何故か少し緊張した。  触れるほど近くは無いけれど、俺から近づけば簡単に触れられる距離。 「今まで俺があんたにしたこと、許せない?」 「……いいえ。色々処理をして頂いてるのに、俺は自分の事ばかりですいません」  申し訳なく思うが、今はまだ色んな事を考えられなくて甘えている状況だった。  喜一くんの事からも逃げているのかもしれない。 「俺は君が来る前から、ここに閉じ込められていた。いや、自分から逃げていたのかな? だから君の事を許せないってことは無い。気づかしてくれたんだから感謝しないといけないし、あ」  思い出して会話を止めて、彼を見た。 「全て終わったら、口説いてくれるんでしたっけ?」 「そのつもりなんだけど、抜け殻みたいな氷雨さんに俺の気持ちが伝わるのか不安で仕方ないね」 「……いいの?」  俺はなぜそんな挑発をしたのか分からない。  それでも目の前の喜一君が、俺が何を言っても受け止めてくれそうで試したのかもしれない。 「また都合よく忘れて逃げてしまう前に、捕まえて捉えなくていいの?」  俺のその言葉に喜一くんは目を見開くと、困ったように視線を揺らした。 「足の傷、だいぶ良くなったんだけど、――確認してみる?」  掴んだ着物をめくり上げると、喜一くんの手が伸びてきた。 「あんた、何回も俺に襲われかけてるだろ! 自覚を持てよ!」  本当はみたいんだぞ、と悔しげな言葉を付けたして、彼の手から解放された。 「ごめんなさい。しつこくて、気持ち悪いですよね」 「気持ち悪くないけど、俺は理性に勝てるほど大人じゃないんだ」 「怖いんです」  記憶の淵から沸き上がるように思い出すのは、兄に押し倒されたあの日。花びらが縁側に雨の様に降っていた気がする。 「兄の様に、喜一くんも逃げていくのかなって思ったら、怖くて」  俺の言葉の意図を読み取ろうと、眉をしかめる。 「捕まえたいって思ってくれたの?」 「一緒に檻の中にいてくれないかなって、思いました」  思い出せば思い出すほど、喜一くんの行動は謎だらけだ。  でも喜一くんの行動がなぞだと思ったのは、彼は自分の利益で動いていないからだ。  この一連の動きが全て、俺の為だと一個一個思い出しては、言葉を失ってしまった。  彼が暴走するのも、怒るのも、全部――俺の為。  その原動力である自分に、彼がしたいこと全て――受け入れてみたい。  兄の様に離れていかないように。傷つけたまま、消えていかないように。 「分かった。じゃあやっぱ傷口を見せて貰う」  手を引っ張られ、コツンと優しく縁側に俺は倒れた。  天井が見えたかと思えば、すぐに喜一くんの顔が近づいてくる。 「俺は貴方にとって良い奴かもしれないけど、怖いやつでもあるから」 「あ、待って」  彼の胸を押しやると、途端に悲しそうな顔をした。 「や、お、帯。帯ってほどくの難しいでしょ?」 「足だけじゃなくて全部みせてくれるの?」 「や、ならいい。今は、怖いことしないでしょ?」  念を押すように言うと今度は顔が破たんした。 「俺は、残念ながら安心安全な人間ではないですが、氷雨さんが不安なその心、満たせるぐらいには大人な自信ありますよ」 「よ、良かった」  シュルっと帯をほどくと、床に着物がはらりと落ちた。  触れてきた喜一くんの手が、足を撫でる。 「擦りキズも無くなってるし、足の腫れも引いて――白くて折れてしまいそうに綺麗だ」 「親父くさい。ぷぷ」 「うるさい」  真っ赤になって怒った癖に、喜一くんの手は着物を払いのけながら、太ももの付け根まで伸びてきた。 「や、止めた方がいいよ。今日、シーサー柄だから萎えると思う」 「だれが萎えるか。こんな状況で」 「ひゃっ」  情けない声が出てしまう。下着の終身部分を指で円を描くように弾かれて、思わず両手で押さえてしまった。 「へ、変態!」 「良いって言ったのは氷雨さん。――見せて貰うから」

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