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十一、桜雨 一
恐怖が錯覚を生みだしていく。
俺は野菜室からカレーの材料の野菜を取り出そうとして、何故か大根を取り出した。
だがその大根が、先日の喜一くんの凶器に見えて、大きな悲鳴を上げてしまった。
「氷雨さん!どうしたんですか!」
靴のまま縁側から飛び込んできた喜一くんを見て、昨晩の縁側での逢瀬を思いだし頬が熱くなった。というか、帰宅途中だったのだろうか。隣の家から飛び出してきた彼の若さには平伏する。
「か、カレー、その、大根、間違えて、あの、」
「カレーに大根は使いません。ってか俺が居る時以外台所に立たないで下さい」
「た、起つ……」
お、落ちつくんだ。彼の下半身に大根はない。ない。流石に大根ではなかった。
昨日の頭が真っ白になって、恥ずかしくて死にそうだったあの行為中の幻だ。
「氷雨さん?」
「い、いえ。明日は当直だと聞いていたので、忙しいならカレーぐらい作ってみようかと思っただけです」
「お味噌汁を温め直すのさえ禁止されてる氷雨さんがねえ」
何故か喜一くんの機嫌は良い。大根が入ったカレーを期待されていたらどうしよう。
「あの……一つだけ聞いても良いですか?」
「いいっすよ。お、チキンあるからチキンカレーかな」
「俺達、お付き合いしてるって認識でいいのでしょうか?」
喜一くんのチキンを持つ手が止まる。そして再びチキンが召されそうになるぐらい握りつぶされている。
「氷雨さんは恋人以外にあんなことさせるつもり?」
「しません! でも昨日は俺の不安な心のせいで雰囲気に流されたんじゃないかなって」
「分かりました。恋文ですね。で、お付き合いして下さいってちゃんと言わなきゃダメってことですね」
「そ、そんなつもりではなくて……」
「いいえ。俺も氷雨さんの為ならばすぐに恋文をしたためてきます。筆と墨をお借りしますね」
仕事部屋へ消えていく喜一くん。これは、カレーはやはり俺が一人で作るべきなんだね。
覚悟を決めてピューラーで人参の皮を剥こうと思って、人参を掴んだ。
「この大きさ……」
恋人になったら、あの凶器を今度こそ受け止めなければいけない。
俺も人参ぐらいならば受けとめる覚悟は持たないと。
……喜一くんは唯さえ慣れてそうだったし余裕もあった。
俺だって次は怖がらずに受け止めなければ。
に、人参ぐらいなら入る?
おずおずと着物の上から押し付けて、入りそうか確認して見た時だった。
「氷雨さん、小筆って」
「うわ!?」
人参をお尻に押し付けているところを見られてしまいました。
「う、うわあああああああ!」
「氷雨さん!?」
押し入れに隠れた俺を、喜一くんはすぐに追いかけては来なかった。
「氷雨さん、大丈夫ですよ。人参は俺がぽっけにナイナイしときましたから」
「うわああああああ」
「大事に食べますね。氷雨さんの初めての人参」
「さ、最低! 馬鹿! 変態! あほ!」
語彙力のない言葉は、暴力にもならない。このまま、消えてしまいたい。
見られた。――見られてしまった。
「出て行って下さい! 今すぐ出て行って下さい!」
「何でですか。氷雨さんこそ出てきてくださいよ。恋人に恥ずかしがらないでください。あれ以上のことを昨日」
「うるさい!うるさいうるさーい! 喜一くんなんて大嫌いです!」
穴があったら入りたい。もういっそお墓ぐらいの穴でもいい。
あまりにも大根が衝撃過ぎて、自分は信じられないことをしてしまったらしい。
着物の上から確認したかっただけで、別に本当に入れようとは思ってなかった。
でも、――ばっちり見られた。もう死にたい。
「……氷雨さん、俺、昨日がっつきすぎました? それで焦らせちゃったのならすいません……」
急にしおらしく喜一君が小さく零す様に言うが、確かに焦ったがあの奇行はなんとなく、だ。
言いわけしようがない。小さく押し入れから片目だけ覗かせた。
「忘れてください。今日の日は一生口に出さないでください」
「じゃあ、嫌いって言葉も嘘?」
ワンコのように項垂れた彼が泣きそうな顔で微笑む。
「……嘘です」
でも胸ポケットの人参は回収しておいた。
その夜、9,9割喜一君が作ったカレーの全ての人参は彼のお皿に入っていた。
「カレーの作り方は覚えました。野菜を切る、水を入れる、待つ。ルーを入れる。待つ」
「その『待つ』間にお風呂掃除しようとしたり、洗濯物干そうとしたりで水分飛ばして焦げそうでしたけどね」
「だ、大丈夫ですってば! そろそろ橋本さんも定年で、沖縄の甥っ子さんに会いたいみたいだし、公民館の仕事も増えるし、俺も本当にいろいろと覚えなくてはいけないんです」
「あと俺の為に?」
「……馬鹿じゃないんですか」
調子に乗っている喜一くんは、いちいち腹立たしい。
しかも上機嫌。
でも、スーツの上着を脱いで、ネクタイを肩にかけて、野菜を切る姿、なんかちょっとだけ格好良かった。
少しだけです。少しだけ、ですけど。
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