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花、散る、檻の中。 一

「ひさめー! きゅうりできてる! 割り箸みたいに細いけど」 「ひさめ、ひさめ、向日葵咲いた!」 「せんせー、麺まだー?」  夏休みが始まり、子ども達が交代でお花や野菜に水をやりに来るようになった。  中には、夏休みの自由研究に、三種類のヒマワリの種の大きさやら長さやら寿命など調べている。  当直からフラフラして帰ってきた喜一くんが、俺に抱きつこうとも子どもたちが入ってくるので、ぐっと我慢しているのが分かった。  が、俺は筆で色々と弄ばれて以来、恥ずかしくてまともに顔を見れないでいた。  夜に喜一くんが家へやってくると、身構えて身体が固まってしまうというか。  喜一くんは謝ってくれたけれど、許していないのではなく気恥ずかしいと伝えられず、気まずい雰囲気になっていた。いややはり筆を大切にしない行為には怒りは収まっていない。  でも、考えてほしい。 大の男が、足を開かされ、筆で弄ばれ、我慢できずに甘い声と蜜を放ってしまったなんて、思いだしたら縁側をぐるぐると転がって暴れてしまいたくならないか。 「せんせー、明日から学校なの。キュウリ、もらってもいい?」 「へ、もう夏休み終わっちゃうの!?」 「そうだって。今日は人が少ないじゃん。今頃宿題でひーひー言ってるよ」  子ども達が、橋本さん作の素麺流しできゃっきゃしながら、そんな事を言う。  じゃあ、明日から喜一くんにおいでって言うべきかな。いや、散々自分から気まずい雰囲気を出していたのに、今さら呼ぶって。  それこそ、なんか、キスしてほしいみたいな誘っているような気もする。  難しい。 「橋本さん」 「はい?」  子ども達も帰り、橋本さんも帰る支度をしていたので、縁側で座っていた俺は橋本さんを見る。 「……き、き、――彼は今日、仕事は早いかな?」 「さあ。教えて差し上げてもいいのですが、でも月を見た方が面白いですよ」 「月ですか?」 「彼を待つ間の月は、貴方の瞳にどう映るでしょうか」  喜一くんを待つ時間、か。  茜色の空を見上げる。  ぽっかりと浮かぶ月を見て、胸が切なくなった。俺が彼の事をぼんやりとしか覚えていなかったとはいえ、出会いは最悪だった。  兄の名前を名乗って現れて、好きだと言っては振りまわし、俺が知らないような事を、――俺でさえ触れたことのない部分を、彼は触れようと近づいてきた。  誰にも触れられたくない場所に触れられたんだ、きっと。  意地悪で、口が悪くて、頑張って大人ぶってて、俺には一生秘密にしてるかもしれないけど、吉保さんから守ってくれた。  蕎麦屋のおじさんが閉店して田舎に帰ったなんて張り紙をしてあったから聞かないけど、本当は全部知ってるよ。  そして、その手が、その指先が、――その舌が、温かいことを。  彼を待つということは彼思い出すということ。  怖いことばかりじゃなかったということ。  彼が嫌いではないという事実。  だんだんと夜に染まる空に浮かぶ月。その月を見ながら、彼の足音をまつその時間は、確かに胸が甘酸っぱくなる。 『月が綺麗で、堪らない』  彼が俺にくれた言葉。今ならそれが分かる。  彼を思うと、心が、身体の芯が熱くなる。それでいて、全て自分を曝け出して乱れるのが怖くなる。  ぎゅっと胸を鷲掴みされたように、月に魅せられる夜だった。 『喜一くんだよね』 『氷雨さん、俺の名前、覚えていてくれたの?』 少年の喜一君が、嬉しそうにパッと顔を赤めた。 『もちろんだよ。君の元気が良い字も、君の元気で正義感が強い部分もよく知ってるよ』  優しく頭を撫でた。 もし、こんな風に俺がもっとしっかりしていて、彼の名前を覚えていたら、子どもの頃の喜一くんを喜ばせてあげられたのに。 「……なんでこの人は、縁側で寝てるんですか。襲いますよ」  ひらり。花びらが唇に触れた。  の花びらを俺の唇から奪って食べたのは、俺をこの花が散る檻の中へ閉じ込めた喜一くんだ。 「どうして……いるの?」  夢? どこからどこまでが夢なの?  眠たくてうつろな瞳で彼を見上げた。……会いに来てくれたんだ。 「分からないなら、もう一回キスしていい?」  俺が首を振ると、髪の中に手を入れられて梳かれる。そのまま顔が近づいてきて、綺麗な瞳に吸いこまれた。  彼は知っている。俺が言葉でしか抵抗していないことを。  言葉でしか抵抗できないのは、君を嫌いではないから。花びらに残る温もりは、全て君が俺にくれた。 「もっとキスが欲しい」  後悔しないように、俺は月に見守られながら彼に甘くねだった。  キスが降る夜、何度も彼の唇の感触を感じ、小さく声を漏らした。  なのに、彼は満足したのか俺を布団の上へ寝かせると、そのまま戻っていく。  手を伸ばそうと目を覚ました時には、もう既に外は明るくなっていて朝を迎えていた。 「……?」  キスを強請った自分は、夢だったのだろか。  縁側で喜一くんの夢をみたことさえ幻?  そう思って呆然としていた俺は、座布団の上にある手紙に気がついた。 『親愛なる俺の氷雨さんへ』  ベタな書き方に脱力するが、字には迷いが無く美しかった。  まるで法典のように長い手紙に、思わず笑ってしまう。  何回も折られて小さくなった手紙は、可愛くて愛おしい。 『世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし  もしこの世に、氷雨さんが居なかったらならば、俺の心は穏やかで寂しいものだったろう。  俺は貴方と言う冷たく氷のように美しい姿で――甘く可愛らしい香りの花の存在を知ってしまった。  もう離したくない。俺の腕の中に囚われて下さりませんか。  誰よりも大切で愛しいのです。俺を貴方の恋人にしてください』

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