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エピローグ
「宜しくお願い致します」
俺が頭を下げると、公民館の事務の人たちは嬉しそうに頷いてくれた。
「頑張ってね」
「困ったことがあったら、おばちゃん達に言うのよ」
華樹院先生の後ろ盾もあり、子ども達の書道教室の傍ら、公民館でご年配向けの書道教室も明日から始まることになった。
8人の生徒と一から信頼関係を築きながら指導する。俺にしては多い人数からのスタートだ。
橋本さんも慣れるまではスタッフとして来てくれるから頼れる。
兄の保険金は、色々と年月も経っていたので手続きや法的にどう扱っていいのかを橋本さんや喜一くんと調べてくれていて、手元に入ってきた。
それで、兄さんの事故の時に信頼して貸して下さっていた人たちには完全に返し終わり、借金はなくなった。
が、未だに喜一くんは修理代を渡しそうとしても受け取ってくれない。
『彼の大学から刑事なんて出世コースを外して愛を選んだんですからバカなのかアホなんでしょうね』
そう橋本さんが言ってたけれど、尚更お給料が減ってるならばお金を受け取ってもらいたいのに。
「わっ」
ジーンズのポケットが震えて、慌てて携帯を取り出す。未だに指でシュッと操作する携帯はにがてだったり。
「あ、ああ。喜一くん?」
『氷雨さん、めっちゃ会いたい』
第一声が相変わらず、良い男を台無しにしている。つい3カ月前までは、あの檻の中から出る必要も無かったし、出たいとは思わなかった。
けれど、ネオンをバッグに駅まで走りながら、――意外にも綺麗な世界に出かけるのが億劫じゃなくなっていた。
「氷雨さん、こっちです」
「え、俺より早い」
「元々、仕事が終わって電車に乗ってから電話してたので」
そう言いつつも、スーツのネクタイを緩める彼の仕草に、ドキドキする。無駄に色気を出さないでほしい。
怖がらせてきた過去が解決した今、残ったのは俺にひたすらに優しい彼だ。
料理も部屋の掃除も洗濯も、一緒にしてくれる優しい彼だ。
疲れている日でも俺を抱きしめて寝ないと、疲れが取れないと甘えてくれる年下の俺の恋人だ。
「それより、お腹ぺこぺこです。氷雨さんの育てた人参が入ったカレーが食べたい」
「じゃあ、帰りましょうか。昨日、子ども達と人参は収穫してので」
にっこりとほほ笑むと、喜一くんはちょっとだけ口を尖らせる。
「苛めるつもりで言ったのに」
「俺の恋人は、俺を苛めたりしませんよ」
優しく釘を打つと、バツが悪そうに頭を掻きあげた。大きな月がぽっかりと夜空に浮かぶ。
「明日、公民館まで迎えに行っていい?」
「いいですよ。橋本さんも居ますけど」
「……氷雨さんと二人が良いな」
格好良いくせに、喜一君は甘えるのが上手になってきているように思えた。
その証拠に、人気がなくなると、逃がさないと言わんばかりに手を繋いでくる。
その手は、俺も握ったから離さない。
「あのさ、そろそろ鈍感な貴方に言いますけど」
「うん?」
「最近、俺の私物が氷雨さんの家に置かれて増殖してるのご存知ですか?」
「は!? そうでしたっけ」
「通い婚も疲れたので、そろそろ完了です」
「え、は? 完了って何!? あ、あの枕! あの歯ブラシ、あの段ボール!」
「段ボールの時点で気づかない氷雨さんって本当に愛しい」
愕然とする俺の手を、喜一君は絶対に離そうとしない。寄り添って歩きながら、花が散る檻の中へ一緒に帰るのだった。
Fin
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