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第5話

僕はそのまま帰宅し、仮眠はせず、シャワーを浴びて服など着替え直し、支度を済ませた。玄関に山積みになったダンボール箱を避けて、スニーカーを履き、大学へ向かう。 僕は火曜の夜勤後はずっとこのルーティンだ。 夜勤明けの授業は非常に眠たいが、これで家で仮眠でもすれば午前中には絶対目を覚ますことはできない。 大学には1限が少し始まった時間帯に着く。家でのんびりしてもいいが、これも仮眠と同じで、気を抜ける環境にいればきっと体が動かなくなるから午前中は大学にいて午後で家へ帰宅するのが良策だった。 僕はとりあえず受けている2限の講義までの時間、ラウンジの方で他の授業の課題に取り組んだ。ラウンジは人は少なかったが、何人かはチラホラいるし、話し声も聞こえてくる。図書館では静かすぎて眠くなるから、程よい人影と話し声の雑音が逆に僕は課題へ集中しやすかった。 いつものようにある程度課題をやっていると授業の終わりを告げるチャイムがなった。 慌てて荷物を片付け、2限の授業の講義室へ向かう。僕と同じ授業を受けている同学科の友達はやっぱり少なくて、一人で教室の棟を移動した。 大きな扉を開けて、キャンパス内でも2、3番目に広い講義室へ入る。窓際の後ろから3列目の端の席にいつも通り彼がいた。これは最近になって出来た習慣だが、僕は彼の元へ行き声をかけた。 「大江くん、おはよう」 「あ、おはよう、沙稀くん。隣どうぞ」 「ありがとう」 僕は大江くんの隣の席へ腰を下ろした。彼はいつもこの講義室でこの席を取っている。黒板見えるし程よく全体が見渡せていいから、だそうだ。 大江くんとは図書館で会って以来、大学でちょくちょく遭遇している。この2限の授業でも共通で取っていたことを知って以来、一緒に受けている。 「バイトお疲れ様。今日も寝てないの?」 「うん。僕がまたうつらうつらしてたら言って」 「了解。でも無理はしないでね」 大江くんは僕がいつも夜勤明けでそのまま一睡もせず授業を受けていることを知っている。やっぱり難しい講義を受けていると脳が疲れてき、ただでさえ体は疲労して睡眠を欲しているから、眠くなってしまう。僕はそのうたた寝をしてしまいそうな時、彼にいつも起こしてもらうのだ。ノートもまともに取れないことも今までは何度か合り、大江くんには未だにお世話になっている。 しかも彼は頭がいいようで、僕がただ講義を受けて書いたノートよりもすごくわかりやすい。ちんぷんかんな教授の書いた数式の羅列をあっさりと簡単にまとめ上げてしまい、大江くんのノートを見て30分の講義を受ける方が教授の90分の講義より理解しやすい。でもそうやって頼りっぱなしはよくないから、僕はなるべく自分で講義を受ける努力を心がけ、寝ないよう彼に起こしてもらっているのであった。 リュックから筆記用具を取り出し、ノートやレジュメの準備をする。僕が準備していた様子をじっと見ていた大江くんが何かに気がついた。 「あれ?今日手袋してこなかったの?」 「えっ?あ、うん。忘れちゃったんだよね」 「今日すごく寒いのに。指先も赤切れしてる」 「あ、本当だ」 いつの間にやら乾燥肌のぼくは指関節部の肌が赤くなっていた。「今年は特に寒いしちゃんと手入れしないと余計痛くなっちゃうよ」と大江くんはお母さんみたいなことを言いながら、いい質の革バックからハンドクリームを取り出した。 「これ使って。今日、朝僕がちょっと使っちゃったけどあげる」 「えっ!そんな!いいよ!これごともらうなんて…」 「いいよいいよ。沙稀くん自分に関心ないからそのままほったらかしにしちゃいそうだし。これ僕のおすすめだから使ってよ」 そう言って、大きな骨張った温かい手が僕を掴んで縦長の容器を手の上に置いた。 僕は申し訳ないなという顔を再度したが、ちゃんと使ってねと大江くんの綺麗な笑顔の圧で押され、そのままハンドクリームを容器ごと頂くことにした。 キャップの蓋をあけ、白い粘度のあるクリームが掌に出てくる。少し硬くて保湿性が高そうだ。出しすぎたクリームをふんだんに塗る僕の様子を大江くんは満足そうにしながら観察して、彼もノートを出して復習を始めた。 …大江くんはこのようにちょっと世話焼きな所がある。しかも頑固だ。 授業が始まり、うつらうつらし始めると、小声で「やっぱり寝る?」と大江くんは聞いてきた。僕は申し訳ないしちゃんと授業を受けなきゃと思っているから首をフルフルと横に振ると、クスッと笑いながら「後で僕が教えてあげるから寝なよ」と優しい声で囁いてくる。僕が寝不足なのをわかっているから、眠たくなるような甘い声でそう言うのだ。それでも毎回これではまずいからと、大江くんの問いに首を横に振ってノートにペンを滑らせた。先ほどのハンドクリームがまたベタついて手先からペンがぬるりと滑る。僕は必死に黒板の数式をノートに書き殴った。 ふわりふわりと後頭部を撫でられる感覚がしたが、それよりも僕は眠気と数字文字の並びに必死に戦っていた。 ******* 授業が終了したが、僕はまだ少し眠気で意識が微睡んでいた。昼休み明けにもう一つ講義を取っていて、それは出席と終了間際に配られる小さなレポート用紙を書き込めば単位は取れるから、そこでたっぷり寝ようと立ち上がった。 机の上に置いた自分のノートの文字を見たが、黒のミミズ線が走りすぎて何を書いているかよくわからない。またやってしまったかぁとため息をついた。 大江くんは少し苦笑いながら、「はいノート」と僕に差し出してきた。僕は眉を下げながら本当にすみませんと頭を下げた。 僕のうたた寝レベルが強すぎて、二回に一回こうやってノートをまるまる借りないといけない時がある。大江くんと出会って今回で3回目だ。大江くんは立ち上がって「頑張っているから仕方ないよ」と僕の頭を柔らかく撫でた。僕の肩に乗った大江くんの手を端に、横を通りすぎていく女子が僕らをチラ見している。160しかない僕に対して180ほどある大江くんに頭を撫でられる様子は同い年なのにまるで兄弟だ。恥ずかしさ極まりない。しかも大江くんは顔立ちも凛々しくて彫りが深くカッコいいから、余計女の子からの注目を集めやすい。大江くんがかっこよさの塊なら僕は恥ずかしさの塊になった気分だった。 「沙稀くん、ご飯食べよう」 「あ、いいよ。いつもみたいに購買で買って、ラウンジでもいい?」 「大丈夫。行こう」 僕は羞恥と熱を取り払うよう顔をブンブン振って、片付けた荷物を持って二人並んで講義室から出た。 ÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷ 食事を終え、僕と別れた沙稀くんはそのまま3限の講義室へ向かった。 それを見送り、姿がみえなくなると、ポケットに入れていたイヤホンを耳に当てがった。 微かなノイズ音とはあっ…と小さなため息が漏れた音がする。その音を逃したくなくてボリュームを2段階上げた。 『また大江くんに頼っちゃったなぁ…いつかお礼しなきゃ…』 そんなこと気にしなくたっていいのに。僕がやりたくてやってるんだ。 『あ、ハンドクリームも貰っちゃったんだ。このお礼もやっぱり返さないと』 ガタガタッと音が聞こえ、彼が椅子に座ったような音がした。僕は、沙稀くんが教室についたことを確認すると、厚さの薄いタブレット型のパソコンを立ち上げて、アプリを起動させた。数秒のローディングも憎らしい。ついた画面には窓際の左端の席でスマホを弄っている沙稀くんが目に入った。彼は寝ようと思う時大体この席だ。注意を受けにくいのだ。そもそもそういうことを注意する気もない講師だが、彼は少し臆病で生真面目なので目立たない位置で小さくうずくまって寝るのだ。そこがとんでもなく可愛いらしい。 彼がスマホを机に置いて、ハンドクリームと筆記用具を鞄から取り出した。彼の筆記用具入れには僕があげた消しゴムと僕があげたシャー芯を入れたシャーペンが入っている。あのシャー芯はそろそろ切れ時だ。いっそ替え芯の入ったケースを今度はプレゼントしよう。僕があげた芯をずっと使い続けてもらえるように。 彼はハンドクリームを手に取り蓋をあけて、成人男性にしては小さな手の甲にハンドクリームを少しずつ押し出した。 僕があげたハンドクリームをちゃんと使ってくれている…! 先ほど見誤って量を出しすぎだから次は慎重に出したようだ。ギュッギュと小さくハンドクリームを押している姿が愛らしくて愛らしくてたまらない。 彼の手に塗られていくクリームを見て僕は幸福感に満ち溢れていく。沙稀くんの人生にまた僕が介入できた。彼の体や人生の一時に僕の要素がまた一つ組み込まれたのだ。僕が授けた物で彼の生活が回り、僕と接触した時間が彼に存在すること。僕はそれを至極歓喜し、男根がギュンギュンと鳴った。 あわよくば彼の人生を構成するのが僕でありたい…おはようからおやすみまで僕の手で彼を作り上げたい。 僕の永遠でアイドルである沙稀くんは授業が始まってはいないのに机に突っ伏し寝息をたて始めた。すうすうという吐息が甘く聞こえ、僕は画面に釘付けだった。 可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い……かわいい……………。早く僕があげたものに包まれて僕で君を満たしてほしい……。 僕はもう僕の息子が爆発しそうで耐えられないと、沙稀くんの寝息が聞こえる盗聴器のイヤホンを大音量で鼓膜に向かって流し、家へ急いで帰った。

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