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第446話 a pair of earrings (13)

 涼矢は宏樹の視線から逃れるように、斜め前の床を見た。あぐらをかく和樹の、裸足の爪先が視界に入る。あの指の先まで自分のものにしたくて、口づけた。そんなことを思い出し、次の瞬間には、こんな時に何考えてるんだと思う。分かってる。宏樹に図星を指されたから。苦しかった時のことを思い出すのが怖いから、そんなことを考えて逃避してる。 「傷つくことが悪いわけじゃない。自分が痛みを知らなきゃ他人の痛みも理解できなかったりするし、傷ついたり、ふんばったり、そっからまた立ち直ったり、その繰り返しで成長して、強くなるんだからさ。けどさ、そういうことで、つまり人を好きになるってことで、傷つく必要はないと思う。んで、俺はそういう傷をつけるような人間になりたくないと思ってる。今の俺が言っても説得力ないだろうが。」 「振り出しに戻ったみたいだ。」和樹は呟く。「もう少し、分かってくれてると思ってた。」 「俺も自分にがっかりしてるよ。」宏樹はため息をついた。 「気持ち悪いなんて、いくらなんでも、ひでえよ。それで傷つけたくないって言われてもさ……たった今の兄貴の言葉が一番キツイよ。」和樹は額に手を当ててうなだれる。 「もういいよ、和樹。」涼矢は淀んだ空気の兄弟とは逆に、妙にすっきりとした顔をしている。「宏樹さんも、いいんです。間違ってないし、がっかりすることもない。人の気持ちは自由でしょ。俺は男が好きだけど、それだって自由で、それを気持ち悪いって思うのも自由です。自由っていうか……コントロールできないものだから。でも、今まで宏樹さんが和樹の支えになってくれてたのは分かってるし、良かったと思ってます。俺のこと分かろうとしてくれたのも知ってます。それで充分です。」 「だからもう、放っておいてくれって? どうせ俺には理解できない?」 「そんなことは。……いや。そうですね。すみません。」そう言うと、涼矢は立ち上がった。「俺、帰ります。」 「えっ、ちょっ、まっ。」和樹も慌てて立ち上がる。「怒ってんの? 兄貴のせい?」 「違うよ。」涼矢は苦笑いした。「昼前には帰るっつったろ。もう、11時過ぎてるし。」 「まだ早い。」 「これ以上ここにいても、ろくなこと言えないし。」  宏樹は座ったまま、涼矢を見上げる。「それは俺のセリフだな。」 「兄貴が。」と言いかける和樹の肩を涼矢はつかんで、黙らせた。 「宏樹さんのせいじゃないよ。」それから宏樹を見る。「でも、いっこだけ。俺と、その生徒が同じ意見とは限らないんで。俺がこんなだからって、その子も同じこと考えてるだなんて、思わないでください。俺、別にゲイの代表とかじゃないから。宏樹さんと和樹が違うみたいに、俺とその子だって違う。」  宏樹はハッとしたように目を見開く。 「ホントに帰るの。」和樹はすがる目で涼矢を見た。できることなら全力で抱きしめて引きとめたかった。けれど、背後には宏樹がいる。腕をつかむことさえ躊躇われた。  そのまま2人で部屋を出て、恵と隆志に軽く挨拶をして、玄関に向かった。涼矢が靴を履きながら、「親父が来たらまた連絡する。」と言った。 「あ、ちょっと待って。」和樹は急いでキッチンに行き、恵に「そこまで涼矢を送ってくる」と言って、また戻ってきた。 「送る距離じゃねえだろ。」と涼矢は苦笑するが、来るなとは言わなかった。  マンションのエレベーターの中で、涼矢は「怒ってもないし、不機嫌にもなってないからね。」と言った。 「うん。怒ってて、不機嫌なのは、俺だ。」 「宏樹さんは悪くないし。」 「おまえ、奏多ん時もそう言ってたな。水族館で会った時。あの時も、怒ってたのは俺だけで。」  エレベーターが1階に着き、2人は道を歩きはじめた。和樹の経験では、涼矢の家までは軽く走って30分程度の道程のはずだ。途中、バスを使えばもう少し時間は短縮できるが、2人ともそうしようとは言い出さなかった。 「だってそこでエネルギー使ったって、何も変わらない。」 「兄貴も、変わらない? どうせ分からない?」  涼矢はふと足を止める。「おまえ、どこまで着いてくる気?」 「この話の決着がつくまで。」 「つかねえよ、そんなの。」また歩きはじめる。「もうここでいいよ。戻りなよ。」 「ちゃんと話せば分かってもらえるなんて、期待しちゃだめなわけ? おまえんちみたいに最初っから理解できる人と、いくら説明しても絶対分かんない人の、どっちかしかいないわけ?」 「そんなことないのはおまえだって分かってるだろ。」 「分かんないよ、だって涼矢、ヒロにはどうせ理解できないって言ってたし。」今度は和樹が立ち止まった。「どうしたらいいわけ? 俺は、兄貴にも、親にも、おまえが俺の好きな人ですって堂々と言いたいし、それを受け容れてもらいたいよ。そのためにやれることはないの? 時間かかってもいいから。」 「それはおまえのほうが分かるだろ?」涼矢は少し淋し気に言う。「俺は、どうやって諦めればいいのかってことしか考えてこなかったんだから。」

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