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第450話 a pair of earrings (17)

 すねているわけではない。父親がもう帰宅していたとは思っていなかったから、心の準備ができなかっただけだ。いつもならそんなことは気にしない。だが、和樹とのことを知っていたと聞いて以来、初めて顔を合わせる父親にどんな風に相対すればよいのか、見当がつかない。佐江子がいればその戸惑いも希釈されるかと思ったが、逆に緊張が二倍になった。両親から理解されていたらいたで、こんな目に遭うんだぞ、と涼矢は和樹に向かって心の中でひとりごちた。  深く考えもせず、家から一番近い牛丼屋に入った。食券を買って、ここに和樹と一緒に来たことを思い出した。俺はイタリアンに連れて行ったのにおまえは牛丼屋かと、そんな不満を後からぶちまけられた。  あれはピアスホールを開けた日だ。その前も後も、和樹と何度も肌を合わせて。愛しさを募らせて。もうすぐ和樹が東京に行ってしまう淋しさを体で埋めようとした。その時間が惜しくて、だからこんな店に入った。自分の欲望に正直になって良かったなら、食事なんかせずにずっと抱き合っていたかった。  セルフサービスの水を注いだコップを持ってカウンター席に座ると同時に、牛丼が出てくる。それを機械的に口に運んだ。  気持ち悪い。宏樹からつきつけられた言葉。もう、そんな言葉には動揺しないと思っていた。直接誰かから言われたことはない。でもそれは自分が「そう」だと表明していなかったからだ。だが、テレビでもネットでも、そういう言葉は日常的に行きかっていて、それにいちいち傷ついてはいられなかった。慣れるしかなかった。そして、慣れたと思っていた。  やっぱり、知り合いに言われるのはキツイもんだな。涼矢は宏樹の言葉を反芻する。俺は平気な顔をしてられただろうか。傷ついていないふりはできていただろうか。実際、傷ついたけれど、「俺が傷つくこと」で、宏樹や和樹はもっと傷つくんだろう。あの兄弟、そんなところは似ている。  もう1組の、よく知る兄弟も似ている。柳瀬とポン太。ピアスホールを開けに来たポン太は、俺と和樹の仲を聞いても驚きもせず、そこに愛があればいんじゃないすか、で済ませた。柳瀬は最初こそ驚いたけれど、結局何ひとつ否定するでもなく、そのまま受け容れた。これだけ長くつきあってきて、あいつら2人とも、俺に対する態度はずっと変わらない。  俺に兄弟がいたら、同じ屋根の下、俺と似たようなのがもう1人いることになっていたのだろうか。それを想像するとぞっとする。一緒に暮らすなら、俺みたいじゃない奴がいい。もっと前向きで。気が利いて。素直で。でも、ベタベタと甘えて来なくて。――なんだ、結局和樹じゃないか。  ついニヤつきそうになるのを、紅ショウガを口に入れることで誤魔化した。牛丼屋のカウンターで1人でニヤニヤしていたら、それこそ「気持ち悪い」奴だ。  食べ終わって水を飲みながら、涼矢はなんとなくピアスに触れる。あの日は素っ気ないファーストピアスだったけれど、今は和樹と揃いのピアス。柳瀬たちに会う日は外そうと言ったけれど、逆に見せびらかせたい気もしてきた。  この人が俺の好きな人ですって言いたいし、受け容れてもらいたい。  共感などしていなかったはずの和樹のそんな言葉が、自分の中にも湧き上がる。けれど、無理だ、時期尚早だ、と思う気持ちも拭えない。宏樹ですら目の当たりにしたら「気持ち悪い」と思ったと言うのだ。柳瀬だってどう思うか分からない。ましてやほかのクラスメートなんて。  涼矢が帰宅すると、せめて夕食は一緒に食べようと佐江子に言われた。アリスの店はどうか、と言われて家族で哲と会うのが嫌で却下し、Zホテルのフレンチも面倒くさいと断り、言われる前に焼き鳥屋も嫌だと言った。この流れだと、佐江子から「文句ばかりでなく代替案を出せ」と言われるのが目に見えていたから、自分から言った。 「俺が作るよ。」 「大変じゃない?」と佐江子が言い、正継も無理しなくていい、と言う。 「大変じゃないのにするから。」 「そう?」 「うん。家庭料理ってやつ。父さんはそういうのが一番食べたいんじゃないの。」 「そうだね、向こうにもたまに行く定食屋はあるんだけど、味がちょっと濃い。自分で作るにも、ワンパターンのものしか作れないから。」  正継は最低限の料理はする。下手ではない。少なくとも佐江子よりはずっと上手だ。ただ、レシピ通りにしか作れない。玉ねぎ中2個、と書いてあった時に小3個で辻褄を合わせるようなことは苦手だ。なまじ美食家であるだけに、自分の作ったもののクオリティの低さが自分で許せない。結局ほとんどを外食で済ませている。  涼矢は何か思い付いたように「あ、そうだ。」と呟き、正継に言う。「手巻き寿司は? ああ、でも、普段北海道の魚介食べてたら、こっちの刺身じゃ……。」 「いや、いいんじゃないか、手巻き寿司。そういうのは店じゃ食べられないからなぁ。きみたちは2人で食べてるの?」 「食べないよ、この子が都倉くんちで。」 「母さん、余計なこと言うなって。」 「ほう、都倉くんと。」 「だからおふくろの味はそっちで食べてって言ってるの。もしかして、彼のお宅は、おせちなんかも自分で作るのかな。」 「今日から作り始めるって言ってた。」 「素晴らしいわね。うちはあれよ、いつものデパートの。今年は中華のお重にしてみた。30日に届く予定。どうせあなたたち元日しか食べないでしょ、おせちなんて。私もだけど。」 「蟹も届くよ、明日。向こうで注文したから。」と正継が言う。 「いいわね、毛蟹?」 「毛蟹とたらばと。あと帆立も。」 「やった、帆立。」佐江子はこどものようにはしゃぐ。

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