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第453話 凍蝶(2)
「そうか。あの絵、俺、結構好きだったな。」
「地味な絵だったろう。田舎の、山と田んぼと。」
「うん。日本の農村風景って感じで。叔父さんが描いたって聞いた時、意外だったんだよね。叔父さんはモダンアートのイメージだったから。」
「あれは私たちの……私と義国が育ったところだよ。この家を建てた時にね、お祝いで描いてくれたんだ。絵の土地は、私が中学に上がる時に引っ越したから、義国はまだ7、8歳だったはずなんだが、その頃の記憶を頼りに描いたと言うから驚いたよ。私の記憶とも寸分違わない風景でね。」
「そんな大事な絵を、誰に?」涼矢はそう口にしたが、それを大事に思えるのはその風景を共有した正継だけのはずだ。いくら上手と言っても、画家を本業にしていたわけではない。「素人にしては上手」というだけで、芸術的価値があるものではない。叔父の形見なら、もっと経済的な意味で価値ある持ち物だってあったはずだ。それでも「その絵」が形見に欲しいと思う人がいるとしたら。
正継はにっこりと微笑み「まずは食事をしよう。」と言った。
涼矢は多少の緊張を伴いながら食事を続けた。今の質問は、半分はものの弾みだが、半分は意図的なものだった。父が自分に話したくないと思えば誤魔化せるように。話す機会を窺っていたのなら、ちょうどいいと思ってもらえるように。そして、どうやら父の選択は後者であるようだった。
初めての「家族での手巻き寿司」の夕食がつつがなく終わると、佐江子が率先して後片付けを始めた。涼矢も手伝おうと立ち上がりかけると、作ってもらったからと言って断られた。最後の皿を下げると襖をぴったり閉めて、父と2人の時間を作ってくれるつもりのようにも思われた。
正継はさっきの涼矢と同様に、今は何もない壁を見つめて言った。「義国とは年が離れていたし、彼はアメリカの大学に行きたいと言って留学して、そのまま海外を拠点にしてしまったから、一緒に過ごせた時間は本当に短かった。今思えば、あの絵は、2人で遊んだ、最初で最後の頃の風景だったんだね。」
「あんな田舎にいたんだ。」
「父も役人だったからね、地方を転々としてたんだよ。だからあそこにいたのも数年間だけで。」
「ふうん。」
「特定の土地への愛着というのはなかったけれど、彼にとってはあれが心の原風景だったのかな。ああいう田舎が大好きで、同時に、大嫌いで、飛び出して行った。」
「え?」
「きみも察しがつくだろうけれど、うちは一族郎党、役人だの弁護士だの警察官だのが多いだろう? 私もその一人だけれど。そんな中でね、絵描きになりたいというのは、なかなか勇気の要ることで。誰が反対したわけでもないんだけれど、無言の圧力はあったと思うよ。そこから逃れたかったのと、自分の才能を見極めたかったという理由で留学して、結果としては、絵描きの才能はないから趣味に留めることにしたわけだけれど、芸術からは離れられないと言って、アーティストのプロデュースやマネジメントといったことを勉強しはじめた。仕事も国も彼に向いていたんだろうね、その道で生計が立てられるようになったし、彼から来る便りはいつも楽しそうだった。たまに帰国した時も……ああ、きみも何回か会っているね?」
「うん。俺、好きだったよ、義国叔父さん。俺がチビだった時も、大人と話すみたいに芸術論とか語る人でさ。」
そう言うと正継は声を上げて笑った。「そう、いつも酔っぱらうと何時間もそんな話をして。私たちが閉口してろくに話を聞かなくなると、きみのところに逃げて何やらしゃべっていたね。」
「こどもみたいな人。」
「そうだね。私の中の義国もそうだ。そして、そのまま逝ってしまったね。」正継の視線が箪笥の上の写真に移る。「彼自身にはそれで食べて行けるほどの絵の才能はなかったようだけれど、発掘する才能はあったようだ。無名のアーティストを見つけては売り込んで、何人も世に送り出したらしいよ。お葬式の日にはそんな人たちからのメールや手紙がたくさん届いた。彼は結婚しなかったし、こどももいなかったけど、たくさんの人から愛されてたし、尊敬されてたんだ。」
「あの。」涼矢は衝動的に言いかけて、そこで咽喉の奥がつかえたようになる。正継は黙って続きを待っている。佐江子はいない。誰も助け舟など出してくれない。「お葬式の時、外国人の人、いた?」
「いたよ。」正継は微笑を浮かべながら頷いた。「彼もそういったアーティストの1人だ。全くの無名で、専門的な学校にも行かずにいたのだけれど、たまたま作品を見た義国が声をかけて、アートスクールで基礎を学べばもっと伸びると助言して、学費まで出したんだそうだ。1年もしない内に大きな賞を獲って、その賞金で学費はすぐ返済して。その話は義国から聞いてたから、ああ、その時の子かとすぐに分かった。今では第一線で活躍している画家だよ。……君の推測通り、あの絵は彼に譲った。」
ああ、やっぱり。そう思いながら、涼矢は重ねて尋ねた。「自分の才能を見出してくれた人だから、感謝して、それで日本にまで?」
「そうだよ。出会った時にはホームレスすれすれの生活をしていたらしいからね、命の恩人にも匹敵すると言ってた。」
本当にそれだけの関係? 若き才能を見つけて育てた人と、それに恩義を感じていた人。それだけの? 涼矢は無意識に眉根を寄せる。聞きたいけれど、言葉が出ない。すると、正継のほうが続きを話し出した。
「義国がゼロから育てて成功したアーティストとしては、彼が第一号だったんだ。彼が賞を獲った時には、昂奮して私に国際電話まで掛けてくるほど喜んで。そんな経緯だからね、義国は彼のことを特別に思っていたと思うよ。でも、そういう愛情ではなかった。」正継は涼矢をちらりと見た。「ただ、彼のほうは違ったようだよ。その気持ちも伝えたけれど、義国には受け入れてもらえなかったと言っていた。それでも、画家としてずっと大事にはしてくれて、日本の話もよく聞かされていたと。日本の桜や田園風景をいつか見せたいと語っていたから、こんな形になってしまったけれど日本に来たと言っていた。」
「だから、あの絵……。」
「そう。そんな風景をいつか彼に見せたいと義国が言っていたならと思って、あの絵を。」
「そうか。そうなんだ。」涼矢は細く長く息を吐いた。ホッとしたような、淋しいような、ガッカリしたような、微妙な思いが頭を駆け巡った。
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