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第497話 Spectrum(17)

 部屋は狭く、景色も悪い。だが、それだけに正月休みのこの時期でも空いていたようだ。日頃もっと狭い部屋で暮らしている和樹に至っては、それでも広い広いとはしゃいでいる。 「プランでは17時までにチェックアウトすればいいんだけど、もっと早く帰らなきゃならないよね?」と涼矢が尋ねる。 「んー。」和樹は早速ベッドに乗り、大きな枕を抱え、ごろごろしていた。「そうだなぁ。図書館も閉まってるし、友達と偶然会ったって言っても、正月2日から遊ぶところなんて早々ないから、言い訳がなあ。」 「明日もあるから。今日が棚ボタなだけで。」 「明日もここに来る?」 「それでもいいけど。だったら帰りにでも予約していく。」 「そうしようよ、俺、ここ気に入った。あ、払うから、ちゃんと。」 「……じゃ、明日の分は半分出して。」涼矢は和樹の"プライド"を尊重する。「でも、ここそんなに良い部屋じゃないのに。」 「落ち着く。涼矢の部屋みたい。モノトーンで、余計な物がなくて。」  涼矢は笑う。「実家みたいとか、自分の部屋みたいっていうなら分かるけど、俺の部屋かよ。」 「俺の部屋は落ち着かない。」和樹も自分でそう言い、笑った。「物が多過ぎるんだよなあ。断捨離だっけ、あれができない。」  涼矢は和樹のアパートの部屋を思い出す。ストローや割り箸、たこ焼きについてきた竹串まで取ってあった。そのおかげで助かったこともあるが、あれでは断捨離など無理だろうと思う。だが、その件に関してはもう言及せずに「ベッドくっつけるから、手伝え。」と言った。  シングルベッドが2つのツインルームだった。そう豪華なベッドではない。少し押せば簡単に動かせた。2つのベッドの間にあるナイトテーブルを移動し、ベッド2つをつなげるように寄せた。 「なるほどねえ。確かにひとつじゃ狭い。」 「こういうことだけはテキパキしてるって思ってるだろ。」 「はは、思ってる。」 「小さい頃、旅行行くと、親がまずこんなことしてた。俺がベッドから落ちるからって。」 「へえ。」 「その経験がこういう目的で役立つとは思ってなかったけど。」 「そりゃそうだろうな。」 「あと、ホテルに加湿器用意してもらって、もわもわにしてたな。喘息だったから、乾燥に弱くて。」 「大事にされてるね。」 「そこまでしなきゃならない子を連れ回すなって言いたいところだけど。」涼矢もベッドに乗る。沈むようなスプリングではなく、硬めのマットレスだった。「でも、まぁ、俺にそうやっていろんなもの体験させるってのが、あの人たちの教育方針だったんだろうし……今のうちにって焦りもあったんだろうしね。」 「焦り?」 「だから、生まれた時も俺、生きて退院できるかって感じで。その後も1歳の誕生日が迎えられるかどうかって。それが過ぎても喘息で体弱くて、頻繁に入院して。いつどうなるか分からないから、行けるうちにいろんなところに連れて行きたかったんだろうなぁって思う。」涼矢は和樹の隣に横たわり、その額にキスをした。「それがこんな、人並み以上に健康でデカくなったのは想定外で、今頃、だったらあんな金かけて過保護な旅行しなくてよかったのにって思ってるかも。どうせ大して記憶に残ってないし。ベッドくっつけたとか、加湿器とか、そんなことだけ覚えてて。」 「そうかなぁ。」和樹は涼矢の頭や頬を撫でたり、指の1本1本をつまんだりしながら話す。「結構覚えてるもんだよ、こどもって。」 「和樹なんか胎内記憶があるもんな。」 「それはちょっと違うけど。……京都に行って金閣寺を観たとか、ハワイでイルカと遊んだ、なんて風には覚えていないかもしれないよ? でも、家族でどこかに行って、母親がきれいなお花だよって自分に笑いかけてくれてる場面とか、転んだら親父が肩車してくれたとか、なんかそういうの。うまく言えないけど、さっきの涼矢の話もそうだけど、優しくされた感覚って残ると思うんだよね。」 「まあ、それは確かに。」 「小1の時、夏休みに家族旅行に行ったんだよ。それ、うちの親としてはすごく奮発した旅行だったらしいんだわ。でも俺、図工で夏休みの思い出の絵を描くって時に、旅行のことじゃなくて、ラジオ体操の絵を描いたんだよね。」 「ああ、俺もあった、グアム行ったけど、カブトムシ描いた。だってグアムは7月で、カブトムシつかまえたのは8月の終わりだもん、絵を描く頃にはこども的な気持ちの優先順位はカブトムシ。」 「そんなもんだよな? でもさ、その絵を授業参観の時に母親が見て、怒られたわけ。なんで旅行のことを書かないのって。ラジオ体操なんて、どこにも連れて行かなかったみたいで、恥ずかしいって。でも俺、それって違うと思うんだよなあ。旅行はたぶん楽しかったんだよ。でも、夏休みの絵を描きましょうって言われたから、ラジオ体操にしただけ。」 「そっちのほうが夏休みらしかったんだな、こども心には。」 「そうそう。絵として描きやすかったしね。人たくさん描いて同じポーズにすればいいやって。涼矢と違って、絵は苦手だったから、ホント、その程度の発想。旅行がつまらなかったとか印象が薄かったとかじゃない。今も断片的に覚えてるのは、俺がせっかく買ってもらったソフトクリームを食べる前に落として、兄貴が自分の分をくれようとしたこととか、それ見たおふくろがすぐに新しいのを買ってくれたこととか。あ、おふくろ、普段だったら絶対買ってくれないからね、2個目のアイスなんて。それから、大浴場にドボンと入ろうとしたら、こういうところでは先に体を洗うんだよって親父が教えてくれたこととか、そういう瞬間。」

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