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第510話 彼と彼(4)

「あいつは頭がいい。そこは俺も認めてる。けど。」涼矢はそこで言葉に詰まった。 「いいよ、分かってっから。フォローとか要らない。余計、自分がみ……。」惨めに思えてしまう。そう口にしたら本当に惨めになりそうで、やめた。「それよりさ、その、ムサシってのはコックさんなんだろう? 料理好きなら、おまえとも気が合いそうじゃない?」 「いや、まだ見習い。普段は野菜の皮剥きとか、肉や魚の下処理しかやらせてもらえてないはず。昼間は調理の専門学校行って、夜だけここで働いてる。俺は今日初めてあいつの作ったもの食べたぐらいで。」 「へえ、でも同じ年で妻子って、すごいよな。ちょっと会ってみたい。今、その調理場行ったらいるんだろ?」  涼矢の脳裏に六三四の刺青が浮かぶ。「いると思うけど、仕事中に無駄話する奴じゃないから。」 「ますます涼矢っぽいじゃない?」  きっと和樹が想像している六三四は、実物とはかけ離れているのだろう。しかし、実際の人物像を伝えるのは難しい。そう思って口籠もっていると、和樹が立ち上がり歩きだす。トイレかと思うと、その手前のバーカウンターの空いた席にすとんと座った。涼矢も慌ててそちらへ向かう。 「どしたの。」カウンターに立つ哲が言う。「なんか飲む? カクテル。」 「飲めねえし。」顔こそ笑顔だが、哲になどちっとも心を許していないことが、涼矢には、そして哲にも、伝わっていた。 「ノンアルコールのカクテルもあるよ?」  和樹が少し素に戻る。「そんなの、あるの?」 「ああ。涼矢はいつもそういうの飲んでる。」  和樹があからさまにムッとして「ウーロン茶。」と言った。  和樹の席の手前まで来て、立ち止まった涼矢は一部始終を聞いていた。 「哲。」涼矢が声をかけると、和樹の隣に座っていた客が端の席にずれてくれた。涼矢が和樹の隣に座れるようにという配慮だろう。涼矢は礼を言い、哲はカウンターから出てきて、客の前にあった飲み物と新しいおしぼりを、移った先の席に持って行く。再びカウンター内に戻ろうとする哲をもう一度涼矢は呼び止めた。 「仕事中。」と哲が言う。 「今日は単なる手伝いなんだろ。」涼矢がさっき哲が言ったセリフを返した。  哲はそれを無視してカウンター内に入る。しばらくして和樹の前にウーロン茶を置いた。「そんな怖い顔しないで。」と言い、ニッと笑う。それから涼矢のほうに顔を向け「そっちは? 何か飲む?」と尋ねた。 「いつもの。」涼矢は言う。  グラスを磨いていた哲の手が止まった。「意地悪だなぁ。」苦笑いをして、またグラスを磨きだす。  涼矢は立ち上がり、元いたテーブル席から、まだほとんど口を付けていないウーロン茶を持ってきた。そのわずかな隙に、哲は和樹に小声で伝えた。 「ごめんね。田崎は、いつもの、なんて言うほど常連じゃないし、ちゃあんと田崎って呼んでるからね。安心して。」 「そんなことしておもしろいの?」和樹が咎める。  哲はふふ、と笑う。そのタイミングで涼矢が戻ってきた。その涼矢に言っているのか、和樹に言っているのか、「都倉くん、前に会った時と変わったね。」などと哲が言う。 「どこが?」と尋ねると、奥の厨房からアリスが出てきた。あら、という小声の後にきょろきょろと見回し、やがてカウンター席の2人を見つけると突進してきた。2人の前にカレーを置く。和樹はカレーを頼んであったのを思い出した。  少なめに盛り付けると言われていたはずのカレーライスは、しかし、通常の一人前の量があった。アリスは福神漬けとらっきょうの入った容器を2つのカレー皿の間に置く。 「はい、どうぞ、召し上がれ。」席を移ったことも、哲を含めた3人の空気が微妙なことについても、何も言わないままにアリスはそこを離れて行った。さっき端の席に移動してくれた客が、そのアリスを呼び止めて会計を促す。  いただきます、と小声で言って、和樹はカレーを食べ始めた。涼矢はそれに便乗するように、手を合わせて軽く頭を下げただけで、やはり食べ始めた。 「そういう、いただきますとかさ。」哲が話しかけてきた。 「いただきます?」和樹が上目遣いで哲を見る。 「うん。俺さ、そういうの、ホント、マナーがなってないの。」 「マナーってほどのもんか?」 「そう思うのは、ちゃんとした家で育ってる証拠。」  和樹は意味が分からずぽかんとしていた。無意識に涼矢の顔を見るが、そこに答えが書いてあるわけもない。 「母親がさ、忙しくて。小さい時ね。昼も夜も働いてて、ごはんって言ったら、菓子パンやコンビニのおにぎりがテーブルの上に置いてあって、それだけ。それを1人で食べるから、いただきますとか言う習慣がなかった。学校だと給食があるから、そういうこと言うんだってのは、知識としてはあるけど、身についてない。今になって、箸の持ち方とか、アリスさんに注意される。」 「良かったな。」と涼矢が言った。 「うん、そう。良かったと思う。」哲は和樹と涼矢を交互に見た。「あのね、だから、俺は今結構楽しくやってて、もうしばらくここで世話になっていたいと思ってる。ここにいることは、たぶん俺の欠落している部分を多少は埋めてくれる。まともに近づける。」 「まともって。」和樹が哲を見る。さっきまでの怒りや嫉妬の眼差しではない。

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