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第513話 彼と彼(7)

「そうよ。それを破ったらどうするんだっけ?」 「家のトイレも店のトイレも、1週間掃除当番。」 「その通り。これで何回目かしら。」 「5回目。」 「よく覚えてるわね。おかげで最近、トイレがきれいだわ。うちの子たちより哲ちゃんのほうが掃除が上手だから。」 「今までのバイト先でもトイレ掃除は散々やったしね。ここは元々きれいだったよ。これまでの店はゲロまみれにして詰まらせたり、ろくなもんじゃなかった。中でサカる奴までいるし。」 「そうやって頑張ってきたんだから、あんまり自己卑下しないことね。はい、みんな仲直り仲直り。」 「そもそも喧嘩してないって。」哲は笑う。「俺がひがんで、いちゃもんつけただけだもんなあ?」 「そう思うなら謝りなさい、2人に。」アリスは腕組みをして仁王立ちしている。今日は女装もしていないため、言葉遣いを聞いていなければ体育会系の監督にしか見えない。 「何を謝るの?」哲はへらへらと薄笑いを浮かべて言う。  アリスはこめかみに青筋を立てた。「何言ってるの、今自分で言ったでしょう。ひがんで、いちゃもんつけたことよ。ちょっと見てただけでも分かる。哲ちゃんが余計なことをしたんでしょ。」 「いや、いいです。」涼矢が言った。まだ和樹の手首を握ったままだ。「俺が悪いんで。」 「どうしてよ。涼矢くんは何もしてなかったじゃない。」 「今ここでの話じゃなくて。元の原因は俺だから。」涼矢は財布から一万円札を出し、近くのテーブルに置いた。「帰ります。今日の分、これ。多かったら、今までの分の足しにしてください。」 「そんなのもらえない。今までのだって、さっちゃんにちゃんと払ってもらってるし。」 「じゃあ、おふくろに今度なんか飲ませてやって下さい。それじゃ。」 「涼矢くん。」アリスが引きとめる声に振り向くこともせず、涼矢は和樹の手を強引に引っ張って、店を出た。  和樹と2人、駐車場までのわずかな距離を無言で歩いた。車のキーを開ける段になって、涼矢は自分がずっと和樹の手首を握り続けていたことに気づいた。「ごめん、痛くなかった?」 「痛くはないけど。」  そして2人で車に乗り込む。が、なかなかエンジンをかけようとはしない涼矢だった。  うなだれる涼矢が、何か言いたげにしているのは、和樹にも伝わっていた。「涼矢も、謝らなくていいからな? 哲の態度、ちょっとイラッとはしたけど、それだけだし。」和樹は無理に笑顔を作る。「それで俺たちがおかしくなったら、あいつの思う壺だし。」  涼矢の口が薄く開く。何か言いたそうだが、やはり、言葉は出てこなかった。 「哲のああいう態度ってさ、要するに焼き餅焼いてんだろ。俺たちが仲良いから。可愛いもんじゃない?」自分が真っ先に哲の挑発に乗ったことも忘れ、そんなことを言った。だが、それに対しても涼矢は何も反応しない。和樹はだんだんと焦りを覚えた。「あの店は自分のホームだと思ってるんだろ? だから気が大きくなって、調子に乗って、あんな風にわざと涼矢呼ばわりしたり、過ぎたことを蒸し返したり。」焦って、沈黙が怖くなり、話したくもないことをぺらぺらとしゃべりつづけた。  涼矢は一度つけたシートベルトを外した。そのまま身を乗り出して和樹に近づくと、キスをした。「もうやめろ、その話。」 「……あ、ああ。」放心したように和樹が言う。涼矢はもう一度定位置に座り直した。  間もなく、車が動き出した。 「試験っていつ終わる?」唐突に涼矢が話題を変えた。 「1月中には。……けど、春休みは帰省できない。バイトが忙しくなりそう。塾って、年度が変わるのが2月で、説明会やら体験入会やらあるんだ。そろそろ俺も講習受け持たされそうだしね。……来てくれても、なかなか一緒にいる時間とれないと思う。」 「そっか。じゃあ、和樹の誕生日は、無理か。」 「うん。もし来てくれるつもりあったんなら、夏休みのほうがゆっくり会えるかな。今年の夏みたいに。」正しくは"去年の夏"だが、年明けて間もなくて"今年"と口走った。 「まあ、様子見て、行けそうな時に行くよ。週末だけでも。」 「もったいないから。せっかく来て2泊3日とか。」和樹は空咳をする。「来たいと言うなら、止めないけど。」 「素直に来てって言えばいいのに。」涼矢が笑う。 「言ったら来ちゃうだろ、おまえ。」 「もちろん。」 「だから言わない。」 「まったく。」  和樹は窓のほうを向いた。「……いいんだよ、別に。俺の許可取らなくて。約束してなくても、勝手に来ればいい。そのための合鍵。」  運転中の涼矢は、そんな和樹の表情を見ることはかなわないが、想像はできた。少しはにかんで、耳たぶまで赤くしている、そんな顔。  そして実際和樹はそんな表情を浮かべていた。しかし、窓の外が見慣れた住宅街に入ったことに気付くと、暗い表情に切り替わった。涼矢はその変化も見ることはできない。しかし、同じ心境だった。  別離の時は、もうすぐだった。

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