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第515話 彼と彼(9)

 上京前の10日間。夏休みの2週間。秋の嵐から始まった数日間。和樹とつきあいはじめて過ごした2人の日々。愛を語り、性に溺れた。でもそれだけでない、日々のささやかな会話が、何気ない仕草が、折に触れて思い出される。窓を開けて風が吹き込んでくる瞬間に、駅の自動改札を通り抜ける瞬間に、コーヒーをドリップして最後の一滴が落ちる瞬間に、そばに和樹がいないことが落ち着かない。  そんな自分を傲慢だと思う。和樹に好きだと伝えたかった。それだけだった。そこで終わりだと思っていた恋は、どんどん拡張されていくばかりだ。果ては、こんな……何故和樹は今ここに、俺の隣にいないのかと苛立つほどになってしまった。――傲慢で、強欲だ、と思う。  それこそが愛情だと言うなら、哲が俺を好きだと言うのも、愛情と呼ぶべきなんだろうか。あれこそ傲慢で。独りよがりで。俺の気持ちも無視して、和樹の気持ちも踏みにじって、自分本位な感情。けれど、その執着や嫉妬こそが愛なのだと言われたら反論できない。自分だって、和樹をそんな風に愛しているのだから。自分本位に。独りよがりに。 ――哲と俺は、似てるんだ。いつだったか和樹にも伝えた。確かにあいつと俺は違う。けど、人間を何種類かにカテゴライズしたなら、きっと哲と俺は近い座標にいる、と。なのに、何故あいつは和樹のような人間じゃなくて、倉田さんや俺や、あるいは暴力的な男を選ぶのか。俺は俺にないものを持っている和樹に惹かれるのに、何故俺に似ているはずの哲は、傷を舐め合うような、更にはその傷を更に悪化させるような相手を選ぶのか。  けれど一方で、今回の哲は、アリスさんが自分の欠落を埋めてくれる気がすると言った。それを聞いて俺は安心したんだ。哲の言う通り、アリスさんは親のような優しさと厳しさで、哲を救ってくれるだろう。俺じゃだめなんだ。倉田さんでもだめだった。あいつにとって性の対象にならないような、それでいて愛情深い、アリスさんみたいな人にしかできない。今の哲は、セックスに依存するより、アリスさんのところで、本当は親から注がれるはずだった愛情を受け取るべきなんだ。哲の欠けているものは、そういう「こども時代」で。もしそれをアリスさんの元でやり直せたなら、あいつはきっと良い方向に生まれ変われるだろう。あいつ自身、そんなことはとうに気付いているに違いない。俺が思いつくことを思いつけないはずがない。だからアリスさんのところに身を寄せているんだろう。――なのに、何故あんな風に和樹に絡むんだ? 俺が好きで、俺があいつと寝ないことが気に入らないなら、俺を傷つければいい。和樹が俺の弱点だから、俺自身よりも和樹を傷つけるほうがダメージを受けると知っているから、そんなことをするのか?  だとしたら。 ――だとしたら、俺はあいつを許してやれない。  涼矢は自分の手を見つめた。袖をまくって、肌に浮かぶ静脈を見た。哲の切り刻まれたそこを思い出す。でも、だからなんだと言うんだ、と自問自答する。その傷をつけたのは俺でも和樹でもない。俺はあいつの親でも恋人でもない。あいつを助ける義務なんかないし、ましてや和樹を愚弄する奴なんかどうなろうと知ったことではない。最初からそう思ってた。やけに馴れ馴れしく近寄ってきたあいつ。愛想が良いようでいて、本当は自分以外みんな馬鹿に見えていることだろう。だから平気で千佳のことも、俺のことも、和樹のことも、傷つける。  涼矢は両手で顔を覆った。泣きはしない。ただ、ひどく落胆した。それでも哲を見捨てられない自分に。自分は本格的な馬鹿だと思った。あいつを自分に重ねている。あれは、和樹に出会えなかった俺だ。佐江子のような母親に育ててもらえなかった俺だ。正継のような父親に愛してもらえなかった俺だ。渉先生に死なれ、この世にたった1人取り残されてしまった、「かわいそうなこども」のままの俺だ。だから、突き放せない。許せないのに、捨てられない。  和樹に言えば、それを俺の愛情深さだと変換して、受け入れてくれるんだろう。大事な友達だもんな、そう簡単に見捨てられないよなと言ってくれるんだろう。  でも、それは違うのだ。俺が捨てられないのは「過去の自分」だ。「かわいそうなこども」だった俺自身だ。哲を通して見える、孤独で無力だった自分を救ってやりたいのだ。哲への優しさでも友情でも愛情でもない。どこまでも自己中心的な思いだ。  アリスが仲裁に立ってもあんな態度だ。これからだって、哲との交流を続けていれば同じようなことが繰り返されるのだろう。そのたびに和樹は傷つくことになるだろう。それを考えたら切り捨てたほうがいいと分かっている。それでもあいつを捨てられない理由は、そんな我欲でしかない。そんな醜い俺を、和樹にだけは、知られたくない。  哲のせいで和樹までもが傷つくなら、その痛みの何倍も愛するから。痛みなど忘れてしまうまで、ずっと愛するから。だからどうか。 ――一緒に傷ついてほしい。

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