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第516話 Bitter & Sweet (1)
和樹が東京に戻って、1週間が過ぎた。大学ではすぐに試験が始まった。教職課程を取っている分、試験も多い和樹だった。塾もいよいよ受験直前のピリピリしたムードに包まれていた。自分が試験期間中だからと休むこともできない。体調管理も厳しく言われ、和樹はいつになく規則正しく健全な日々を送っていた。
受験対策といったら高校がメインで、中学受験をする生徒は少ない塾だが、全くいないわけでもない。和樹が受け持つクラスでは今年は3人が中学受験をするという。菜月もその1人だった。スイミング教室の時には地元の公立中学に進むと聞いていたのだが、入塾後にグングンと成績を上げた彼女の親が考えを改めたようだ。
ギリギリになって受験させたいと親が言い出した時、親のいないところでは「スタートが遅かったので合格は厳しいですね。」と言っていた早坂だった。
「だったら無理に受験なんかしないで、予定通り公立に行って、高校受験でいいんじゃないですか。」と和樹は言った。
以前、保護者向けの説明会をやらされた折、現在の東京の受験事情は一通り聞いた。その時、東京には公立中高一貫校というものがあり、公立並の学費で中高一貫教育が受けられるとあって、人気だということを知った。菜月や明生の通う小学校からも毎年20名前後が受け、だが、合格はほんの1人2人に過ぎないとも聞いた。その分、結局地元の普通の公立中学に行くことになったとしても、同様の立場の「不合格仲間」も多く、落ちた時のダメージは私立をいくつも受けて全滅した子よりは軽いのだと言う。
菜月が受けるのもそれだった。やはり学費のことを理由に、私立は受けずに公立一貫校一本だという。けれど、菜月本人は地元の中学に行きたがっていた。それを菜月から直接聞いていた和樹は、余計に菜月の受験に賛成できないでいた。
「それでも、受けさせるんですか?」
「親御さんの希望ですから。」
「本人の希望が優先でしょう?」
「理想はそうですね。」
「いくらダメージが少ないと言っても、わざわざ失敗させることはないと思うんですけど……。トラウマ植えつけるだけじゃないですか。まだ小学生なのに。」
早坂は笑いもせずに言った。「都倉先生の一番の長所は、その素直さですね。」
「はい?」
「小野寺さんの受験については、私もそう思います。が、こちらも商売なので。」
「そうですけど……。」
「でも、商売だからこそ、お支払いただいた分の価値は提供します。小野寺さんにしても、中学合格よりも大きな力を与えます。」
「合格より大きな力、ですか?」
「一言で言えば、挫折からも学べるという体験ですね。彼女は努力が大事、結果よりも過程が大事とばかり言われて育ってきています。でも、そろそろ、努力すれば報われるとは限らないと知ってもいい。そういう理不尽さと向き合ってもがき苦しむ体験。それはトラウマではなく、アドバンテージとなるべき体験です。」
「……落ちる前提なんですね。」
早坂は和樹のその言葉で珍しく笑った。「ええ、落ちます。彼女の実力を考えたら、準備時間が短すぎる。」
「無理やりにでも勉強させないんですか。もっと補習や宿題を増やすとか。そうしなかったら、菜月は、やれるだけのことやった、力を出し切ったって納得できないんじゃないですか。」
「引退試合ならともかく、次の試合が控えているのに、勝てる見込みのない試合で全力を使い切るのは一流のアスリートのすることではないでしょう? 彼女は中学に落ちて、今度は高校でリベンジしようと思うはずです。その時に彼女はやっと本気になりますよ。そして、今度は準備時間があるわけです。そこで我々の出番です。中学受験に失敗した悔しさがなかったら受からないような、ハイレベルの進学校に入りますよ。もしかしたらその頃にはうちの塾にはいないかもしれませんがね。」
「えっ。」
「うちは難関校にたくさん合格者を出すのが目的の進学塾ではないので、その時には、そういう塾を紹介して、移ってもらいます。」
「いいんですか、それで。」
「はい。餅は餅屋です。そういう判断も込みで、商売というものです。」
親身になって先々のことまで考えて、それでいて切る時はすっぱり切る。早坂はやっぱりどこか涼矢に似ている。和樹がそう感じるのは、こんな時だ。
そんな状況で、必死に勉強する菜月を見るのは、少なからず心の痛むことだった。菜月はおませな少女だが、所詮まだ小学生だ。休み時間には「今朝見たテレビの占いで、イニシャルがKの人と相性抜群って言ってた! これってカズキっちだよね?」などと報告してくる。
「イニシャルがKなら、久家先生じゃない? あ、小嶋先生も。」と言うと、ひどく不満そうに頬を膨らませた。
「私もKだわ。」と受付の菊池までもが言った。
「もう、やだぁ! これは絶対カズキっちなの。苗字じゃなくて、下の名前なの!」と唇を尖らせる。
「小野寺さん、私の下の名前は浩史 ですよ。」音もなく背後に立った早坂に、菜月は飛び上がるほど驚いた。「それと、先生方はきちんとなになに先生と呼びましょう。カズキっちではなく、都倉先生。」
「はぁい。」
「あと2分で次の授業です。席に戻って準備してください。」
「わっかりましたぁ。」
2つに結んだ髪の毛を弾ませて、菜月は教室へと戻っていった。
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