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第517話 Bitter & Sweet (2)

 それから約1ヶ月後。菜月は合格発表の日を迎えた。結果はインターネットでも確認できるが、それより先に校内に掲示されることも多い。菜月の受けた中学もそうで、だから菜月は、発表の時間に合わせて結果を見に行った。既に春休みに入っていた和樹は、他の講師と共に午前中から塾で待機していた。まず最初に電話を掛けてきたのは別の男子で、電話を取った菊池は、その第一声を聞いただけで合格だと分かった。その次にかかってきた電話も合格の報告だ。  彼らから遅れること30分。ようやく菜月から電話が来た。その時間差だけで結果の想像はついた。 「だめでした。」  菜月のしょんぼりした声を聞いたのは、彼女の指導に一番力を入れていた久家だった。試験当日、終了後その足で塾に来て、久家と一緒に自己採点をした。その結果は、例年の合格ラインと照らし合わせるとかなりギリギリだった。いくつかはどう回答したのか記憶が曖昧だったし、記述問題の配点も正確なところは分からない。どちらかといえば不合格の可能性が高かった。それでもやはりミラクルが起こることを期待してしまっていた。菜月も、塾の講師陣も。だが、やはりミラクルはそうそう起こるものではなかった。 「よく頑張りました。お疲れ様。」  久家の柔らかな声が菜月をホッとさせる。 「今日は美味しい物を食べて、ゆっくり寝てください。」と続く久家の声。  ああ、そうだった。……和樹にも身に覚えがある。高3の夏休み明け頃から、結果発表の日まで、何をしていても、常に心の片隅にひっかかっているもの。眠りが浅くなり、時に食欲すらなくなる。高校受験の時は、初めての受験だったから、その緊張は更に顕著だった。ましてや、中学受験。経験のない和樹は想像するしかないが、自分の小6時代を思い起こせば、まだまだ子供じみた遊びに夢中になっていた頃だ。そのストレスは想像してもしきれない。そこにチャレンジした菜月を、努力不足、実力不足などと批判する気には到底なれなかった。  だが、更に聞こえてきた菜月の言葉への返事らしき久家の言葉は、和樹を驚かせた。 「ええ、もちろん、いいですよ。今日は夜10時まで開けています。」  合格発表の日には正式な模範解答が提示される。菜月は自己採点で「ギリギリ」の自分が不合格だった理由をきちんと知りたいから、塾でもう一度見直ししたい、と言って来たのだ。  早坂の言っていた通り、菜月は「悔しさをバネに、より高みを目指す」タイプのようだった。落ちても塾に来て、次のステップに進もうとするその強さに、和樹は舌を巻いた。  夕方、菜月は塾に現れた。さすがにいつもよりは意気消沈している。和樹に軽口を叩くこともない。久家と一緒に空き教室に向かった。それから小一時間ばかり経過して、来た時よりは元気な様子で教室から出てきた。そこでやっと和樹の姿を見つけたかのような顔をした。 「あのね、だめだったよ。」 「うん。でも、頑張ったな。」 「せっかく教えてくれたのに、ごめんなさい。」菜月は頭を下げた。和樹は驚いて顔を上げるように言った。顔を上げた菜月の目が、潤んでいた。「私、プールの時もそうだった。最初は塩谷よりできたのに、最後25m泳げるようになったのは塩谷で、私は15m泳げるようになっただけだった。」  塩谷明生は、菜月と同じ小学校から来ている塾生だ。比較的真面目で、あまりでしゃばるタイプではない。スイミング教室の時も、泳ぎに来ているのかおしゃべりに来ているのか分からない菜月と違い、黙々と言われたことを繰り返し、そして結果的にはほぼカナヅチだったところから25m泳げるようになった。短期教室参加者の中で一番の成長ぶりだった。 「これからは、もっと、ちゃんと、必死に頑張ろうと思います。勉強でも、なんでも。」  まっすぐな目をしてそんなことを言う菜月に、和樹は気圧されてしまう。なにごとも、もっと、ちゃんと、必死に頑張れ。自分のほうがそう叱咤されているようだ。 「菜月は、充分頑張ったよ。これからもっと頑張れると思うけど。」  和樹はそう答えた。菜月がうん、と頷いた。 「その通りです、小野寺さん。」早坂が珍しく優しい声を出す。「ここがスタートですから。でも、闇雲に頑張ればいいというものではありません。作戦が必要です。今回は作戦を練る時間が少し足りなかっただけです。次の勝負は確実に勝てる作戦を立てましょう。あなたにはその力があります、大丈夫です。」  菜月の目からぽろぽろと涙が零れた。けれどすぐにそれを手で拭って、「はい。」と気丈に答え、菜月は帰っていった。  和樹は高校受験のクラスや、私立の難関中学を目指すクラスは受け持たせてもらっていないから、今回都立の一貫校を受験をした小6生3人だけが、少しは直接の関わりがある「受験生」だった。そのうち2人は合格。菜月だけが不合格の生徒だ。どうしても菜月の気持ちに寄り添ったまま、気持ちが離れなかった。そんな和樹をよそに、他の講師たちは新年度のカリキュラムや合格祝賀会の話題に移っていた。

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