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第518話 Bitter & Sweet (3)

「都倉先生、そんな顔してないで。彼女一人が生徒じゃないし、彼女自身はもう切り替えて前向こうとしてるんですから。」そう声を掛けてきたのは久家だった。 「はい、すいません。」 「まあ、分かりますよ。僕も初めて受け持った生徒のこと、今でも忘れられませんから。もっとも毎日のように見てるから忘れようもないですけどね。今もそこにいるし。」視線の先には、講師の森川がいた。そう言えばこの塾の一期生だったと聞いたことがある。 「教え子が同僚になるってどんな気持ちですか?」 「うーん。何とも言いようがないなあ。嬉しいのはもちろん嬉しいですよ。でも、ちょっと恥ずかしいですね。未熟な頃の自分を知ってるわけだから。森川くんも、今年で4年目かな。でも彼は最初から教えるのもうまくて、僕よりずっと優秀です。」  久家のそんな謙遜を聞きながら、ぼんやりと森川を見た。早坂と久家と小嶋が立ち上げたこの塾の、最初の生徒。その頃にはもう久家と小嶋はつきあっていたはずだ。生徒の目からどんな風に映っていたのだろう。 「久家先生や小嶋先生に憧れてたんでしょうね、森川先生。だから、自分もここで塾の先生になろうって。」と和樹は言った。 「どうでしょう。誰かに憧れて、と言うなら、早坂だと思います。」 「教室長に?」つい、信じられないと言わんばかりの言い方になってしまったことに気づく。「あっ、いえ、もちろん、素晴らしい教育者だとは思ってますけど。」  久家はぷっと吹き出した。「気持ちは分かりますよ。早坂、昔からああでしたからね、偏屈で、無愛想で。……彼はね、常に変化するものが好きなんですよ。そして、そこに何かしらの法則性を見出すのが好き。言いましたっけ、彼ね、理系の大学院出て、会社でも研究職でした。根本的に理系なんですよ、考え方が。こどもなんて日々変わる、でしょ。でも、やっぱりこどもの世界にも法則がある。おそろしく複雑だけれど、複雑だからこそ好きなんでしょう、それを解読していくのが。森川くんもそういうタイプだから、共感というか共鳴というか。きっとそういう関係なんだと思います。」  生徒の前では早坂を教室長と呼び、森川のことも森川先生と呼ぶ久家だが、生徒のいない場ではそんな砕けた呼び方をする。それだけ和樹に気を許してくれるのだと思うと、少し嬉しい。  一方、2月に入ってからの涼矢は、少々気の抜けた生活をしていた。試験が終わり、久しぶりに「お絵描き用」と本人が称するパソコンに電源を入れ、落書きめいたものを描いたりもした。  だが、気が抜けたといっても、心穏やかな状態とは言い難かった。理由は数日前の、涼矢にとっての試験最終日のできごとだ。  朝一番の試験を受ける教室で、哲に出くわした。同じ科目はいくつも取っているのだから、当たり前と言えば当たり前だった。むしろ最終日までろくに顔を合わせなかったのが不自然だった。避けていたのは涼矢のほうだ。教室に哲の姿があれば離れた席を選んで座った。逃げるようで嫌だという気持ちはあったけれど、口を開けば和樹への態度について文句を言ってしまうに違いない。試験日にそんなことで動揺したくなかった。 「おはよ。」と、何事もなかったように哲から話しかけてきた。 「うん。」 「うん、って。」哲が苦笑する。「挨拶ぐらいしてくれても。アリスさんだったら怒るとこだぞ。」 「……おはよう。」涼矢はそう言って哲の脇をすり抜け、哲が荷物を置いた席から離れた席に向かった。哲はそれを追いかけることまではしなかったが、試験終了後にはわざわざ涼矢の元にやってきた。 「あと、何の試験残ってんの。」 「租税法基礎。」 「俺と同じだ。じゃあ、今日で最後?」 「ああ。」涼矢は目も合わせず、そっけなく答えた。 「怒ってる?」  その哲の言葉に、ようやく哲のほうに顔を向けた。「怒ってる。」 「結構執念深い。あれから何日経ってると思ってんの。」 「何日経っていようが、おまえからの謝罪はなかったな。」涼矢はそう言い捨てると、スタスタと歩き出した。哲は慌ててその後をついていった。 「だって、田崎が避けるんだから、謝りようもないじゃんよ。」 「スマホだって何だって、謝る気があればいくらでも手段はあるだろ?」 「ちゃんと目を見て謝ろうと思ったんだよ、誠意をこめて。」 「誠意? おまえにそんなもんあるのか?」 「あるに決まってるじゃん。」哲は小走りして、涼矢の肩に手を掛け、立ち止まらせようとした。「なぁ、ちょっと待って。足の長さを考えてよ。」  涼矢は立ち止まらなかった。肩の手を振り払うようにして、更に早歩きだ。「走れよ。」 「ひっどいなあ、もう。謝るから、止まってよ。」 「試験の後にしてくれ。」 「一言言うだけなんだから。」 「だから、それのどこが誠意だよ。一言で済ませる気かよ。」 「……分かった。」哲が立ち止まる。数歩先を行く涼矢がつられた止まった。哲を振り返る。「そんなら、試験の後に時間作ってくれると思っていいんだな?」

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