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第532話 近くて、遠い。 (1)

 アリスから電話がかかってきたのは翌日の夕方だ。佐江子経由でないということは哲絡みの用件であることがうかがえて、悪い予感しかしなかったが、仕方なく出た。  出てみると、案の定、哲が長期に渡って留守にするから、代わりにバイトしないかという話だった。 「哲が、長期の留守?」 ――あら、涼矢くん、哲ちゃんから何も聞いてない? 「はい。1月の終わりに大学で会ったきりで、メールも何も。」 ――なんだか、ゲストハウスっていうのかしらね、外国人向けの安いホテルあるでしょう? 大学の近くにそういうのができて、そこだったら大学にも通いやすいし、住み込みで働くって言うのよ。 「え……。」 ――語学の勉強がしたいけど、語学スクールに通うお金がないからって。私も若い頃はバックパッカーでそういう宿泊所は随分と渡り歩いたわ。そこでお手伝いすると宿代がタダとか割引になったりするのよ。すごく楽しかったし、刺激的で良い経験だと思ったから、止めなかったの。  ちょうど自分も英会話スクールに通おうと考えていたところだった。同じタイミングで似たようなことを思い立ったものの、哲はそういったスクールに通う費用がないのだと聞かされて、そんな心配などしなくていい自分の立場を後ろめたく感じてしまう。 ――それでゆくゆくは留学したいみたいよ? そういうのも聞いてない? 「俺が聞いてたのは、逆に、アリスさんのところがすごく居心地いいって。」 ――あら、じゃあ気にしちゃったのかしら。実はね、少し前に義理の息子、つまり娘の旦那から連絡があったのよ。帰国が早まって4月には戻れるって。そうなると哲ちゃんのために部屋を空けておくことが出来なくてね。もし住むとこに困ってるなら、お店の2階使っていいわよとは言ったんだけど。  アリスのその好意のことは聞いていた。だが、それ以外のことは――特に留学のことは、夏に東京でチラリと話題に出たきりで、本気で検討している様子は見受けられなかった。 「留学でもしたらいいとは、冗談混じりに話したことはありますけど……具体的なことは、一言も。」 ――まあ、詳しいことは本人に聞いてちょうだい。それでね、哲ちゃん、2月いっぱいでバイト辞めるって言うから、代わりにやらない?っていうのが、この電話。」 「それは、申し訳ありませんけど、できません。俺、哲みたいに要領よくないんで、勉強と両立できないし。クリスマスの時みたいに、1日2日の手伝いぐらいならやれるかもしれないけど、でもあれだって哲が手伝ってくれたからで、あんまり、接客とか。」 ――そう言うと思ったわ。分かった、じゃあこの話はおしまい。でも、お店のほうは気にしないで、いつでも顔出してね。 「はい。」 ――でも、良かった。 「え?」 ――お正月にお店に来てくれた時、涼矢くんと哲ちゃん、ちょっと険悪だったでしょ。でも、今の涼矢くんの話だと、そんなに仲悪くないみたいだから。安心した。  そんなつもりはなかったけれど、今の自分の言葉を思い返してみると、確かにやたらと哲を持ち上げたような言い方をしていたようにも思う。だからといってわざわざ言い直してアリスを不安がらせることもないと、涼矢は適当に濁した返事をして、電話を切った。  涼矢はノートパソコンを立ち上げ、大学のサイトにアクセスした。留学についての案内のページを探す。見つけた後には、更に学籍番号とパスワードがないとログインできない在学生用の詳細ページへ。  留学プランはいくつかあるようだ。その中から法学部の2年生が応募できるコースをピックアップする。加えて、所定の単位を取得済みであることなどの条件もある。哲なら成績は問題ないだろうが、きっと費用面で自己負担の少ないものを選ぶはずだ。4月から現地に行くコースは既に応募期限を過ぎているし、哲の性格からして半ば観光気分の短期のホームステイは避けるだろう。そうやって絞り込んで、おそらくはこれだろうというコースを見つけた。5月末に応募を締め切り、6月末に校内選考が行われる、9月から1年間のコース。行先はヨーロッパの某国。渡航費用と食費を含む現地の生活費は自己負担だが、学費と住宅費は大学負担。大学の講義が理解できる程度の英語力と日常会話程度の現地語が使えることが応募条件……。  これに照準を合わせているなら、今から語学力アップにいそしむのも当然だろう。  留学したらいい。そう勧めたのは自分だ。日本の、こんな地方大学でくすぶってていい奴じゃないんだと和樹にも話した。なのに、現実味を帯びてくると複雑な思いにとらわれる涼矢だった。  その思いを言葉にしたら、「俺を置いていくのか」と、そんな女々しいものになってしまう。それじゃまるで、哲に特別な感情を抱いているようだ。いや、確かに特別だとは思う。柳瀬や奏多に対する友情とは違う。和樹への愛情とも違うけれど、でも、どちらに近いかといえば、友情よりは和樹への想いに近いのだ。けれど、激しいばかりではなく、穏やかで優しい時もある和樹への想いとは、やはり違う。哲への感情は常にぶしつけで、荒々しい。友情よりも愛情に近いのに、好意よりも嫌悪に近い、そんな感情。

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