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第533話 近くて、遠い。 (2)
そんなことをぐるぐると考えた挙句、涼矢はパソコンもそのままに、ベッドに仰向けに寝転んだ。倉田でも留学でもいい。あいつを俺の目の前から連れ去ってくれ。この世からいなくなれ……といった物騒なことはまったく思わないが、近くにいると何かと面倒事がつきまとう。地球のどこかで頑張っていて、たまにメールが来て、学会発表がうまくいったなんて報告をもらって、俺も頑張らないとな、などと張り合いにする。その程度の距離感であいつの「友達」でいたい。
――このベッドだ。
涼矢は急にあの晩を生々しく思い出した。毎晩このベッドで寝ているのに、そんな風に思い出したことなどなかったのだが。
このベッドに来て、あいつは俺を押さえつけた。力尽くならいくらでもやり返せたけれど、傷が見え隠れする細い腕にたじろいだ。華奢な肩と薄い胸に怯えた。それをうっかり抱きすくめてしまいそうになる自分が怖かった。
和樹とつきあっていなければ抱いていた。和樹にも正直にそう言った。――もし、そうしていたら。あのまま勢いに任せて哲を抱いていたら、どうなっていたのだろう。少なくとも、今の自分はそんなことをしないと断言できる。でも、高校を卒業する手前のあの時、和樹に想いを伝えられなかった、あるいは和樹が応じてくれなかった自分だったなら。きっと淋しくて、多少自暴自棄にもなっていて、そんな時に哲と知り合って、声を掛けられて。そうして求められたのであれば、きっと断らなかった。
でも、それから?
何回かは身体を重ねたかもしれない。でも、その先は? やがて哲は俺に飽きて、他の男の元へ行くだろう。そうなっても、俺は引き留めないだろう。仮に少しでも嫉妬を見せれば、哲のほうから「つまらない男」と烙印を押されて、やはり離れて行っただろう。傷を舐めあうように数回抱き合ったら、それで終わり。そんな2人だったに違いなかった。それで癒える傷でもない。同族だからこそ分かる、痛々しい自分を確認し合うような、そんなセックスをして、互いの傷を深くしただけだっただろう。
だから、あの晩の哲を拒んで、良かったのだ。あれがどんなに哲を傷つけたとしても、あいつのためにも、俺のためにも、あれで良かったんだ。当たり前のことだが、改めてそう思った。
和樹を抱いたのだって、このベッドだ。確かめ合ったのは傷じゃなくて愛だ。自分が和樹をどれほど愛しく思っているか、大切な存在か、何度も思い知らされた。幸せだった。今だって。きっとこれからだって。
涼矢は、哲との夜のことを二度と思い出すまいと決心した。そして、もしあいつがそうと望むなら、留学のことも応援しようと思った。トラブルメーカーが遠くに行くなら丁度いい、ではない。友人として。哲のためにそれが最良の選択だと信じて。
和樹は塾のアルバイトをこなしつつ、時には大学の仲間と遊びに出かけたりしながら、長い春休みを過ごしていた。春期講習では、初めて受験学年である新中3も担当した。とはいえ小論文のような、採点にコツの要る作業はまだ任せてもらえない。中3の国語に関しては、講師の森川と2人で担当することになった。
「森川先生って、何年目ですか?」翌日の配布物を確認しながら、和樹は森川に尋ねた。
「4……この4月から5年目、かな。」森川は小テストの採点をしながら答えた。
「あ、じゃあ新卒でここの講師になったわけじゃないんですね?」
「ええ、以前は別の仕事をしてました。」
「会社員?」
「いえ、パン屋です。」
「え?」
「パン屋。実家がパン屋だったので。」
「へえ。今、そのお店は?」
「両親がまだやってます。」
「継がないんですか?」
「さあ、どうでしょうね。もう少し黒字だったら、それでもいいんですけど。そもそも大して儲からないから、僕がこうして外で働くことになったわけで。」
「そうなんですか?」
「はい。でも、去年の秋頃からネット販売を始めたんですよね。日持ちするタイプの焼き菓子なんかを。それがまあまあ売れ出したんで、このまま軌道に乗るといいなぁとは思ってます。」
和樹は手を止めて、本格的に森川と話をする体制になった。「パンとか、お菓子とか、森川先生も作れるんですか?」
「一通りは。」
「すごい。」
「商売ですから。」
「でも、大学行ったんですよね? 調理師の専門学校とかでなく。」
「はい。院まで行って、酵母の研究をしていました。これ言うと、パン屋になるのに大学院まで行く必要ないだろうと言う人はいますけど、パンは酵母の力でできますしね。」
「役に立ちました?」
「はい。商品開発には大いに。たとえば通常より長期保存できる惣菜パン。ネット通販でも売りやすいし、非常食としても売れ筋です。」
「へえ……。」
「なんだって役に立てようと思えば立ちますよ。語学が堪能なパン屋なら外国人のお客さんに重宝されるだろうし、法律や経済学を知っていれば経営する上のメリットになると思うし。今言ったネット通販だって、僕がシステム構築しました。院にいた時、論文を書いたり整理したりするために簡単なシステムを組んだんですよね。その時の知識や経験が役立ちました。」
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