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第536話 近くて、遠い。 (5)

「いいなあ、そういう子。」森川が口を挟んだ。「僕、彼女さんのほうにまったく同感です。実家のパン屋、バレンタインシーズンはチョコ菓子も作りますけど、チョコってね、扱いが難しいのもそうですけど、原料の質にかなり左右されるんです。うちみたいな単なる町のパン屋では、高級店のような単価では無理ですからねえ。チョコ掛けのパンとか、ブラウニーとか、そういったものに力を入れてます。それでも、変に手作りするより絶対美味しいですよ。衛生面も心配ないし。指紋のついたトリュフや生チョコなんて嫌じゃないですか?」 「それは嫌ですけど。」和樹は苦笑する。少なくとも菜月の手作りはそんなことはなかった。きれいに作られていたし、ちゃんと美味しかった。けれど、高校時代には、まさに今、森川が批判したような類の「手作り」をもらった覚えもある。 「でしょ?」森川がそれ見たことかという表情を見せる。  ただ、不愉快には感じなかった。そういう「気持ち」が嬉しいのだ、という意見は変わらない。「嬉しいのは嬉しいですよ。だから、そういう時は、ありがとう、って一礼してから食べずに処分します。」 「僕は食べ物屋の血が流れてるせいかな、ダメなんですよね。食べずに処分なんて。だからそういうものを製造する人も好きにはなれません。」 「ま、そういうことは、手作りチョコを嫌というほどもらってから言ってください。」久家がそう言うと、森川はそれもそうですね、と笑った。  これでこの日の仕事は終わりだった。久家は補習のため、森川と和樹は自習で居残る生徒や電話対応のための残業だった。電話対応までするのは、受付の菊池が既に退勤していたからだ。小嶋はもともと出勤日ではなかったし、早坂は出張していた。だから、この3人が戸締りをして出れば、もう塾は無人だ。 「森川くん、一杯行きませんか。」と久家が言った。くん付けになっているから、久家はもうオフモードに切り替えているようだ。 「いいですね、行きましょうか。」と森川が応じた。 「都倉先生も行きません? ご飯食べるつもりで。ごちそうしますよ。」と久家が言った。 「本当にいいんですか? でも……。」一食浮くのはありがたいし、久家と森川ならそう気を張る必要もなさそうだった。ただ、3人しかいないところでの誘いだったから、自分だけ誘わないわけにはいかないという社交辞令かもしれないとも思い、ためらってみせた。 「こういう機会もあまりないですから、予定がないなら是非。」と久家がにこやかに言う。 「じゃあ、お言葉に甘えて。」友達同士ではほとんど使わないそんな言い回しも、最近は自然に言えるようになってきた和樹だった。  連れて行かれたのは、ほぼ一駅分と言っていいぐらいに歩いた先の、駅からも遠い隠れ家的な居酒屋だった。久家も森川も当然のようにその店に向かったから、塾関連の飲み会ではよく利用する店なのかもしれない。  小上がりの席に通されて、和樹はスニーカーを脱ぐのに少々手間取った。紐をきつめに結んでいたのだ。ようやくのことで席に着いてホッとしたのも束の間、靴下の先に穴が空いていることに気が付いた。 「やっべ。」と呟くと、久家と森川は覗き込むように和樹の足先を見て、事態を理解したようだ。 「彼女に繕ってもらえばいいよ。」と森川は冷やかし気味に言う。 「はは。」と和樹は乾いた笑いを返した。 「あ、もしかして同棲してるとか?」と重ねて森川が聞いてきた。 「いえ、同棲どころか、遠距離で。」 「えっ、そうなの? 地元? 高校の時からの?」 「はい。」 「大学何年だっけ。」 「1年です。4月から2年。」 「大学から東京だよね?」 「はい。」 「じゃあ、まるまる1年近く、遠距離。」 「そうです。」 「へえーえ。」森川は心底驚いたような声を出した。「意外と一途なんだねえ。」 「意外ですか?」さっきの久家はその失礼な言い方にも何も言わなかったが、和樹は黙っていられなかった。 「だって、モテそうだから。モテるよね。モテるに決まってる。」 「なんですか、その決めつけ活用。」和樹は笑ってしまった。ついでに「まあ、モテますけど。」とわざと言ってみる。 「やっぱりね。チョコ何個?」と森川が言った。 「菊池さん入れて6個。」 「なあんだ、僕とそんなに変わらない。」 「森川先生は?」 「2個。菊池さん入れて。」 「変わるじゃないですか。てか、実質1個。」  久家も含めて声を上げて笑った。 「その1個を誰がくれたのか、気になります。」と和樹が言うと、森川はエヘンとわざとらしい空咳をした。 「管理人さんです。僕のアパート、老夫婦が住み込みで管理人やっててね、その奥さんのほうから。どう若く見積もっても70歳オーバーだけど。」  もう一度3人で笑った。 「それがね……あ、そんなことより注文しないと。」  その時になって慌てて注文をした3人だった。  久家と森川がビール、和樹はウーロン茶を手に、乾杯をした。

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