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第537話 近くて、遠い。 (6)
「ここ、よく来るんですか。」と和樹が久家に尋ねた。
「ええ、よく来るってほど頻繁ではないけど、職場のメンバーで来るとしたら大抵ここです。この辺まで来れば、関係者が少ないから。」
「え? 関係者?」
久家は少し声のトーンを落とす。「保護者や、地域の学校の先生方です。そういう方々にはあまりお聞かせしたくない内容も飛び出すことがありますんで。ですから、先生、とか、塾、とか、あまり言わないようにしてください。久家さん、森川さんで。あ、生徒の個人名は絶対だめです。」
「分かりました。」なるほど、と思う和樹だった。さっき久家が「塾の先生方」といった言い方をせずに「職場のメンバー」という言い方をしたのもそのせいかと理解した。
じきに注文した料理が席に届いた。刺身の盛り合わせと厚焼き玉子は久家が注文し、鶏の唐揚げとポテトサラダは森川が注文した品だ。和樹は久家から定食でも頼んだらどうかと言われたが、授業の前にも軽く食べてきていたので、取り分けも出来そうなネギトロ巻を頼んでいた。
「飲めるようになるのは来年か。」と森川が言った。
「はい。早生まれだから、みんなより遅いんですけど。」
「いつ?」
「それが、2月14日なんです。」
「本当に?」
「はい。」
森川は声を上げて笑った。「彼女からの誕生日プレゼントはチョコ? それとも別々なの?」
「別々。ていうか、チョコ、結局もらってなくて。」
「そっか、会ってないのか。」
「ええ、お正月以来。」
「淋しいねえ。」
「森川せ……森川さんは?」
「何が? 僕が誕生日がいつか? それとも、淋しいかどうか?」森川は自分で言って自分で笑った。「誕生日は10月で、淋しくないです。」
「あれ、いい人できたの。」久家が言った。
「いませんけど、いないことに慣れたので、淋しくはありません。」
「なんだそりゃ。」久家は砕けた口調で笑った。
「そう言えば、今日小嶋せん……さん、は。」どうも「さん」付けに慣れない。そして、森川の前でうっかり小嶋の名前を出してしまったことに狼狽えた。
「今日はもともと休み。」答えたのは森川で、勝手に「どうして塾にいなかったのか」と解釈してくれたらしく、和樹は胸をなでおろす。
「お墓参りに行くと言ってましたよ。お母さんの。お彼岸には少し早いけれど、その頃になるとまたいろいろ、親戚の対応もしなくちゃならなくて忙しくなるからって。」
「ああ、小嶋さんの家って、名門なんですよね。」
「名門というか、妹さんが議員なさっていたりするから。亡くなったお父様も。」
「やっぱり名門だ。パン屋とは違う。」森川は自虐的に笑って、刺身を口にした。
「でも森川くんのパン屋さんも人気でしょ。なんか賞も獲ってた。」
「まちグルメグランプリのことでしょう。あのへんの商店街で勝手に盛り上げてるだけで、別にどうってことないですよ。」
「ああ、そうか。」と和樹が口を挟む。森川が何?と言いたそうに眉をピクリと上げた。「森川さんは、ずっとここの地域の人ってことですよね。実家のパン屋さんも近くなんですか?」塾は地域密着型だから、近所のこどもしか通ってこないはずだった。ということはつまり、一期生だった森川少年は当時からこの近くに住んでいた、ということだ。
「うん、そう。駅の反対側だけどね。」
「でも、今はアパート暮らし? 実家あるのに?」管理人にチョコをもらったとも言っていた。
「そう。実家にいると結婚しろとかうるさいし、休日は店を手伝わされるし、朝は早いし、夜はやたら早いし。もう寝てるな、うちの親。」森川は腕時計を見た。10時を少し回る時間まで塾にいたから、既に11時近い。
「あ、終電って何時だろ。」和樹は独り言のように呟いて、スマホで終電情報を探そうとした。
「ああ、全然大丈夫ですよ。最終電車は1時近くまでありますから。都倉くんの方向は1時過ぎでもあるんじゃないかな。まあ、私と一緒に出れば大丈夫です。」
「さすがによく知ってますね。」と和樹は笑った。
「そりゃまあねえ、20年もこんなことしてますから。」
「森川さんは歩いて帰れる距離ですか。」
「そうだね。ここからだと実家のほうが近いけど、そこは素通りして。」
「たまには顔出してあげなさいよ。」
「出してますよ、たまには。」
そのうちそのパン屋にも行ってみよう、などと考えながら久家と森川の会話を聞く。それで、美味しかったら、涼矢にも食べさせたい。自然とそんな考えが浮かぶ。
「顔見るたびに結婚しろだのうるさく言わなきゃね、もっと行くけれど。いや、というか、そのまま実家暮らしで構わなかったんですけどね。」森川はそう続けて、ため息をついた。「久家さんは言われません?」
その言葉に緊張したのは和樹だった。ハッとして久家を見る。久家は悠然と構えて「この年まで1人だと、親も諦めて何も言いませんよ。」と答えた。1人。本当は1人じゃないのに。何十年も小嶋先生と。和樹は反芻する。
「都倉くんはまだまだだものね、いいなあ。」森川は和樹を見る。「まっ、彼女いるんだしね。と言っても結婚なんてまだ考えないか。」
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