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第538話 白い壁と青い窓 (1)
「いや……あ……でも、そうかな。」そんなことはない、ちゃんと考えてる。そうはっきり言ってやりたいが、そうも行かない。そんなことを言えば根掘り葉掘り聞かれてヤブヘビだろう。
「ゆっくり考えたらいいですよ。」穏やかに久家が言う。事情を知っている久家からの一言は、ありがたくも重い。
「早坂先生って、じゃなくて、早坂さんはお見合い結婚なんですってね。」森川も酔いが回ってきたのか、先生という言葉が口をついた。そう言えば森川は「教室長」と呼ぶより「早坂先生」と呼ぶことが多い。昔ながらの呼び方はそちらなのだろう、と和樹は推測した。
「ええ、そう。起業した時の借金を全額返し終えて黒字転換したところで、すぐにお見合いして、すぐに結婚してましたね。30歳になるかならないかだったと思いますよ。」
「親友の仲人までお願いしたのに全然知りませんでした。今日、都倉くんから聞いて、びっくりしたけど、ここだけの話、納得しちゃいましたよ。だって早坂さんが恋愛って結びつかないから。」
「そうですか?」
「そうですよ。ねえ?」森川は和樹に同意を求めた。
「恋愛結婚もお見合い結婚も、知り合うきっかけが違うだけっておっしゃっていました。」和樹は答えた。
「でも僕は、お見合いってすぐ双方の親がしゃしゃり出てきそうだし、あと仕事? 収入? 学歴? そういうもので相手の価値を量るような感じがして、抵抗あるなあ。」和樹が早坂は見合い結婚であることを教えた時には、自分も結婚相談所に登録してみるか、などと言っていた森川だが、どうやらこちらのほうが本音のようだ。
森川の言葉で、早坂の言葉の続きを思い出した。「逆に、親の反対や収入のことはクリアしてる前提だから、恋愛に集中できていいんだって、そんな風におっしゃっていたと思います。そうだ、その時確か、菊池さんもそれ聞いてて、共感してました。」
「菊池さんもお見合い?」と森川。
「いや、そうじゃないみたいけど、結婚してから話が違う、と思うことがたくさんあったからって。」和樹の言葉に、久家がふふっと笑った。
「久家さんは結婚しようと思ったこと、ないんですか?」と森川が尋ねた。またも、緊張するのは和樹だ。
「ありますよ。」
「どうしてしなかったんですか?」少々立ち入ったそんな話を「恩師」にできるのも、酒のおかげだろうか。
「一言で言うとタイミングですかね。こちらは仕事第一の時、向こうは結婚したがるし、こっちが人恋しくなる頃には、向こうの熱は冷めてる。その歯車が合わないとね、なかなか踏ん切りがつかないですよ。」
それが久家の実体験によるものなのか、それともこういった質問用に用意してあるシナリオに過ぎないのか、和樹には知る由もない。
「でも森川くん、いつかはしたいとは思ってるんでしょ?」今度は久家のほうから森川に聞いた。
「そうですね。結婚したいというより、こどもが欲しいかな。今のご時世じゃ難しいかもしれないけれど、3人ぐらいは欲しくて。それで逆算するでしょう。定年までに一番下が大学卒業できるようにするには、実はもう1人目が生まれていないといけない計算なんです。あ、何歳差の兄弟にするかによっても変わりますけどね。」
そんな夢物語を妙に具体的に語る森川の声を、和樹はいたたまれない気持ちで聞いていた。
その時だ。
「……て。」急に腹痛が起きた。
「どうしました。」
「大丈夫です。ちょっとトイレ行ってきます。」和樹はよろよろと立ち上がり、小上がり席の足元にある、店のサンダルを履いて、トイレに向かった。だが、なんとかたどりついたトイレでも、痛みはおさまらなかった。そのうち脂汗まで出てきて、便座から立ち上がれないほどの痛みとなった。お腹を守るようにうずくまり、しばらく我慢していると、わずかに痛みが軽減する瞬間がある。その時を狙って、和樹は元の席に戻った。しかし、もう小上がりに上がる気力はない。
「すみません、あの……ちょっと体調が。」
「ちょっとじゃなさそうですよ。救急車呼びますか?」
「いえ、大丈夫です。すみませんけど、お先に帰らせても……つぅっ。」喋っている間にも痛みが襲う。
店員もやってきた。冷たいおしぼりを渡してくれて、それで手と顔を拭うとひんやりして少しだけ気持ちがいい。「タクシー呼びましょうか? それか救急車?」
「大丈夫」と言おうとする和樹を制して、久家が店員にタクシーの手配を依頼する。和樹の方は、それ以上それを断るだけの元気がなかった。
「西荻ですよね。」
「はい。」目を開けるのも辛くなってきて、小上がりの段差に腰掛けて、頭を抱えた。
久家は森川と何か話している。1mと離れていないところにいるはずなのに、その声はやけに遠くに感じられて、おぼろげながら、久家が森川にお金を渡し、ここの支払いをお願いしているらしいことを察する。
「タクシー、来ました。」と店員が言う。久家が自分の荷物に加えて和樹のバッグも持って歩き出そうとすると、慌てて森川がスニーカーを掲げた。
「靴、靴!」と森川が言う。
すると店員が紙袋を持ってきた。「それでいいなら、そのまま履いて行ってください。」と和樹の足元のサンダルを指す。久家がその心遣いに礼を言い、近いうちに返しに来ます、と言うと、店員は和樹のスニーカーを袋に入れて、それも久家に渡した。
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