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第539話 白い壁と青い窓 (2)
てきぱきと動けはしないが、意識もあったし、会話もできた。しかし、時々激しい腹痛が襲ってくる。痛みには山があるようだった。久家はタクシーの中で和樹の額に手を当て、脈を診て、それから下まぶたをめくったりした。後で知ったが、貧血になっているかどうかをそれで確認していたらしい。
結局久家にはそのままアパートの部屋まで送ってもらうはめになった。久家は和樹をベッドに寝かせると、あたりを見回して、コップに水を入れてローテーブルに載せた。それから和樹のバッグをベッドのすぐ脇に置いた。
「スマホ出して、手の届くところに置いたおいたほうがいい。」という久家の言葉に、和樹はゆっくりと手を伸ばして、バッグからスマホを出した。
「体温計はある?」という問いかけには首を横に振った。
「少し待っててください。必要なものを揃えて戻るから。それで用が済んだら、帰ります。何かあったら、すぐ連絡して。」
和樹は頷いた。
久家がドラッグストアとコンビニを回って戻ってきたのは、それから30分後のことだったが、和樹はうとうとしていて時間の感覚はなくなっていた。
久家の買ってきた体温計は、口に咥えればものの30秒で体温が測れるというものだった。早速測ってみると、37.5度と微熱だ。
「体温計、ここに置きますから、時々測ってください。もし高熱が出たり、痛みがあまりにひどくなるようなら、無理せず救急車呼んで。」
「はい。」
「塾のほうは、明日は休んでください。私のほうから連絡しておきますから、都倉くんは何もしなくていいです。ちょうど明日は私が休みだし、代講もできますから、心配しないで。」
「明日にはよくなってると思うんで。」かすれた声で和樹は言う。
「そんなの分からないでしょう。感染する病気だったらそれも困るし。どちらにせよ明日は休んで、病院へ行って、その結果を連絡ください。」
「すいません。」
「困ったことがあったら塾に電話ください。つながらない時は、私でも小嶋でも、ケータイに連絡ください。」
「はい、ありがとうございます。……んっ。」また痛みが来た。和樹は反射的に痛む腹部に手を置いた。
「そこが一番痛い?」
和樹は無言で頷いた。
「都倉くん、盲腸は?」
「なってません。」
「もし、その痛みの場所が、このあと右側の下腹部のほうに移っていくようなら、盲腸かもしれません。もちろん僕は医師じゃないので、何とも言えませんが、ちょっとそれも念頭に置いておいてください。」それから少し間を空けて、「近くにご家族やご親戚はいますか?」と尋ねてきた。
「いえ、誰もいませ……あ、叔父がいます。確か、葛西って。」
「葛西ならそんなに遠くないですね、良かった。一応その方の連絡先聞いていいですか?」
和樹はベッドに寝そべったままスマホを操作し、明叔父の情報を表示させ、久家に見せた。
「山根明 さんですね。」山根は恵の旧姓だ。久家は表示の番号を自分のスマホにも登録した。「盲腸でもそうじゃなくても、入院や手術という話になったら、お身内の方に連絡する必要があると思うので、念のためです。」
「はい。」と答えたものの、過去には入院や手術の経験はなく、実感の湧かない和樹だった。
「では、僕は帰りますけども、夜中でも何でも連絡してくれて構わないから。なんならここに泊まってってもいいけれど、それも嫌でしょう?」
「あ、はい。大丈夫です。今、少し収まってきたし。」和樹は力なく苦笑した。「いろいろ、すみません。」
「いいんですよ。お大事にね。くれぐれも無理しないで。あ、スポーツドリンクと、リンゴジュース、それとバナナね、置いてあるから。なるべく水分だけでも摂ってください。」
「はい。」
久家が去った直後に、涼矢から電話が来た。
――どうしたんだよ。
「そっちこそ、何? 12時過ぎたら電話しないんじゃなかったの。」気力を振り絞ってそう答える。
――既読スルーだったから。
「あ……ごめん、塾の人と食事してて。」
――そんならいいけど。今はもう家?
「ああ。」
――もしかしてもう寝てた?
「……うん、ちょっとね、疲れが出たみた……つぅっ。」また痛みの波が来てしまう。
――どうした?
「悪ぃ、腹 痛くてさ、でも、平気だから。」
――下痢?
「は、してない。」
――ストレス?
「分かんね。……あつつつ」
――大丈夫か?
「ん、ごめ、切るわ。寝たら治るよ、心配すんな。」
――あ、ああ。お大事に。
何が出来るというわけもなく、今は早く寝かせてやることが唯一の「出来ること」と判断して、涼矢は電話を切った。
和樹はその後も時折訪れる腹痛と戦いつつ、一晩を過ごし、涼矢もまた、眠れぬ夜を過ごした。涼矢は「こんな時こそ近くにいられたらいいのに」と思わずにはいられない。何も役に立てない、そばにいて手を握ることすら出来ない距離を恨んだ。いっそ今すぐ車を飛ばして行きたいぐらいだが、そうまでしたところで、そばにいて手を握るぐらいしかできない自分を恨んだ。
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