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第540話 白い壁と青い窓 (3)

 和樹はとりあえず痛みが落ち着いている頃合いを見計らって、久家が用意したリンゴジュースを飲んだ。一気に飲むとまた腹痛を呼びそうで、一口ずつちびちびと飲む。普段リンゴジュースなど飲まないが、そう言えば実家にいた頃、風邪などで寝込むと母親がリンゴのすりおろしを作ってくれたのを思い出す。リンゴは弱った体にいいのだろうか、とぼんやり思う。  1人なんだな、と、そんなことも思った。夏休み、涼矢が来た時、1人暮らしの話題をした。朝、家を出る時にうっかり転がした空き缶が、帰宅してもそのまま転がっているのだと。1人で食事するのは淋しくはない、でも、1ミリも動かずに転がってる空き缶を見ると1人であることを痛感するのだと。そんな話をした。  そう、寝込んだら自動的にリンゴジュースが出てくるわけではないのだ、と思う。体温計にしても。  久家は泊まり込みは嫌でしょう?と笑って言った。確かにそれは抵抗があるが、でも、強い痛みが襲ってきて、このまま意識を失いでもしたらどうしよう、などと思った時には、久家でも誰でもいいから、自分の異変に気付いてくれる人が近くにいてほしいとも思った。  それが涼矢であればベストだ……とは、思わなかった。こんな風に苦悶に顔を歪めてる姿は見せたくないと思った。昨夜は、浅い眠りの中、時折襲う痛みで目を覚ました。その時に無意識に助けを呼ぼうとして呼んだのは涼矢の名前ではなく「母さん」だった。  カーテンを開けると外はすっかり明るくなっていた。和樹はまず保険証を探す。個人ごとのカード式のものだったから、他のカード類と一緒にしていたような気がする。恵に「いっしょくたにしてはいけない」と注意されながらも雑に束ねた銀行の通帳やカードに印鑑、それらを最終的にしまったはずの「よく分からないけど、大事そうなものを入れておく箱」を開いた。一時しのぎのつもりだったから、100均で購入したプラスチックケースだ。銀行カードだけはたまに使うから財布に移動したけれど、その他のクレジットカードや、何故か地元の図書館の会員カードなどがそこに入っていた。それを探ると、果たして、保険証カードもそこにあった。  学、という文字が見えた。親と同居していない「学生用」の保険証なのだと父親から聞いていた。その保険証を発行してもらう手続きに必要だからと、引越しの時に不動産業者に正確な住所を尋ねていた父親。ふいに自分の身分が「親に扶養されている大学生」であることを思い出した。忘れていたわけではないが、普段はそんなことを考えたりしない。それどころか、「1人暮らしで、アルバイトして、偉い」などと涼矢に言われるものだから、すっかり自立している気になっていた。  腹痛は少しだけ治まっている。今のうちにと、和樹は病院に向かった。  結論を言えば、久家の見立て通り、盲腸、つまり虫垂炎だった。痛み止めの点滴をしてもらって痛みは大分治まった。そして、今の程度なら薬での治療も可能だが、再発の可能性が残るのでできるなら手術で取ってしまったほうがいい、と医師から言われる。学生で春休み中であることを確認されると、「それなら尚更今のうちに」と手術を勧められた。入院日数は早ければ3日、平均しては1週間弱と聞いて、和樹はスケジュール帳を開く。春期講習はまだあるが、森川抜きで自分ひとりが担当しなければならないコマは2回だけ、それと最終日の仕上げテスト監督があるが、そのぐらいならなんとか別の先生に替わってもらえそうだと思い、手術することに同意した。しかし、そうなると今度は、手術の同意書も必要だし、入退院の手続きもあるから身内の方と一緒にもう一度来るようにと言われた。両親は遠方だから叔父でもいいかと聞くと、できれば親御さんが望ましいが、と難色を示される。 「兄でもいいですか?」と和樹は尋ねた。高校も今なら春休み中であることを思い出したのだ。父親は仕事があるから難しいだろう。来るとしたら専業主婦の恵だろうが、もし入院中の数日間、自分の部屋に泊まり込むことになるなら宏樹のほうが気が楽だと思った。 「成人していらっしゃるならお兄様でもいいですよ。今日来られます?」と説明してくれていた看護師が言う。 「今日の今日は無理かも……。」 「では明日からの入院ということで用意しますので、明日の御来院の際には。」有無を言わさぬ勢いで看護師が説明を続けた。今日の明日でも来てもらうのは大変なのに、と和樹は思うが、今はまだ痛み止めの点滴で治まっている痛みがぶり返すことを考えたら、一刻も早くどうにかしてほしいとも思う。  和樹は病院を出てすぐ、実家に電話をかけた。出たのは恵だ。事情を説明すると「まあ。」と絶句した後、「明日は無理だわ。瑞穂ちゃんの結婚式なのよ。」と困りきった声で言った。瑞穂ちゃん、とは和樹の従姉だ。「お父さんもお母さんもそれに行かなくちゃならなくて。11時からお式で、お昼から披露宴でしょう、それが終わってからって言っても引き出物もあるし、着替えも……」話し続ける恵を遮り、和樹が言った。 「兄貴は?」 「宏樹? 宏樹でもいいの?」 「成人してればいいって。」 「ちょっと待って、今部屋にいるはずだから。」ゴトンと音がした。保留にしないで、受話器をそのままどこかに置いたのだろう。スマホばかり使っている和樹には、懐かしい気配のする音だ。

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