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第543話 白い壁と青い窓 (6)

「うん。」 ――今の、俺の気持ちでいいんだよな? 「ああ。」 ――えっと。俺も、同じ気持ちです。そうしたいと、思ってます。 「……良かった。」和樹は安堵のため息をつく。 ――意外でもなんでもないだろ。 「分かんないよ、おまえ、すぐゴチャゴチャ理屈つけるから。」 ――一緒に住むようになったら、って。 「ん?」 ――俺も、おまえも、就職して、一緒に住むようになったら、言おうと思ってた。 「フライングだったか?」和樹は笑う。 ――ううん。そういう風に確認すれば良かったのかって、目からウロコ。……俺は、その、今おまえが言った通り、理屈がないと一歩出せなくて。稼いでもいないうちから養子縁組してくれなんて言っちゃだめだと思ってて。思い込んでて。 「ごめんな、俺は軽率なもんで。」 ――違うよ、だって、今の気持ちを確かめたいって言ってただろ。そう聞けば良かったのかって、感心した。 「感心だなんて。」和樹は笑った。「俺は、聞きたかったから聞いただけ。」 ――うん。ありがと。 「別に、礼を言われる筋合いじゃないだろ。どっちかつうと、俺がありがとうだ。」 ――和樹。 「あ?」 ――すげえ好き。 「……。」 ――手術、頑張って。 「頑張るのは医者だろ。」 ――和樹だよ。 「ま、頑張るけど。」 ――じゃあ、また。次話す時は、手術終わってるかな。 「かもな。」 ――元気でも、そうじゃなくても、動けるようになったら、連絡して。 「うん。するよ。」  2人は静かに電話を切った。  涼矢は不思議な気分だった。  和樹からの突然のプロポーズ。――いや、突然でもないのか。今までだってそういう話はしてきた。同棲の話もした。養子縁組の話もした。もっと言えば、将来のこどものことまで話した。そう、ちっとも突然じゃない。逆に「何を今更」と思ったっていいぐらいだ。それでもどうしてだか、胸がドキドキする。  入院。手術。そんな和樹が心配なのに、どうしても顔がニヤついてしまう。自分で両頬を軽く叩いて気合を入れる。お腹が痛くて、盲腸で、入院で、手術で、つまり和樹は今、とても大変で、辛いはずで。その心細さが言わせた言葉に過ぎない。……無意識に、ぬかよろこびにならないようにと予防線を張ってしまう。でも、そんな風に否定しても否定しても、和樹の言葉が不安や過剰な感傷のせいだとは思いきれなかった。――和樹のことだからどこまで深く考えてるかは分からない、けれど、ふわふわとした将来の希望的観測じゃなくて、手術の同意書とか、カップル証明書とか、そんな言葉も出てきて、だから、つまりは和樹なりに真剣に、本気で言ってくれているんだろう。そう期待していいのだろう。そう思うと、また頬が緩む。  こんなことがあるたびに、ここまで来たのか、と思う。「ここ」が「どこ」とは明確には言い表せないのだけれど。好きだと伝えて、デートをした。キスをして、体を重ねた。喧嘩もした。仲直りもした。好きだと言われ、愛していると言われた。そして、おはようやただいまを言い合える日のために頑張ろうと2人で決めた。  永遠に実ることはないと思っていた恋だった。届くことすらないと思っていた。好きだと言われても、たまたま指先が触れ合っただけだと言い聞かせていた。いつか潰えてしまうものだと覚悟していた。それでもいい、この瞬間があるなら、いつか終わってしまっても生きていける。そう思い続けながら、必死で繋げていた恋だった。  激しいくせに、諦められないのに、あやふやで曖昧なその想いを、和樹が形にしようと思ってくれている。紙切れ一枚のこと。その通りだ。それでも、口約束でない確かなものを、形ある誓いを、と、和樹が俺のために考えて出してくれた結論だ。嬉しくないはずがない。  涼矢は口を押さえた。またついニヤけてしまいそうになるのをこらえるために。そして同時に、泣いてしまいそうになるのを耐えるために。だが、やがて指の間から嗚咽の音が漏れてきた。嬉しいのに、涙が溢れて、どうしようもなかった。  宏樹は当日中に到着できるバスには間に合わず、結局深夜バスに乗り、翌朝早くに都内に着くことになった。そこから在来線に乗り、和樹のアパートまで辿り着いたのは朝の7時を少し過ぎた頃だった。和樹は寝ていたが、宏樹は実家用の合鍵を持っていたので、勝手に鍵を開け、部屋に上がった。その物音では目を覚まさなかった和樹だが、その後の荷解きの気配で起きた。 「あ、兄貴?」 「起こしちまったか。」 「うん……でも、もう7時だから。」 「いつもこの時間には起きてるのか?」 「1限ある日はね。」 「変われば変わるもんだな。……どうだ、体調は。」 「ん、痛い。」 「痛いか。」 「でも今は落ち着いてる。夜中は、痛み止めの薬が切れたみたいで、何度も目が覚めちゃって。」 「もう少し寝てたらどうだ。」  宏樹の優しい声かけを無視して、和樹は言った。「それ、何。」 「入院セットだと。パジャマとか、スリッパとか、あと、なんだこれ。箱ティッシュまで入ってるぞ。」宏樹はバッグをさぐりながら説明した。

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