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第544話 白い壁と青い窓 (7)

「助かる。何もなくて。病院の売店で買うしかないかなって思ってた。」 「おふくろが準備してた。今回のためにというわけじゃなくて、非常持ち出し袋みたいに、前々から用意してあったらしい。」 「なんでそんなもの。」 「親父用らしいよ。覚えてない? 親父、一回交通事故に遭ってさ。」 「何それ、知らない。」 「カズはまだ幼稚園ぐらいだったかもな。自転車同士だったから、命に別状はなかったんだけど、腕と腰を痛めて、結構長く入院してたんだよ。その後もリハビリだなんだって通院してたし。その時に俺とおまえの面倒見ながら、病院通って洗濯物持ち帰ったりって、しんどかったらしいんだわ、おふくろも。それでまたそういうことがあった時のためにって、この入院セット作ったんだって。」 「そんなことがあったんだ。」 「起き上がれるか? 大丈夫そうなら、一応、中身見て確認しといて。親父用だったからさ、パジャマなんかはおまえのに入れ替えたみたいだけど。」  入院セットのバッグを覗き込むと、涼矢が泊まりに来た時に着た、赤チェックのパジャマが見えた。母親の好きな赤のチェック柄。病院の案内冊子の「入院時の持ち物」のリストと見比べながら、宏樹と一緒に確認する。 「ああ、あと。」それとは別のバッグからクリアファイルが出てきた。「これ、保険の書類。手術と入院で保険金が下りるらしい。」 「保険? 俺の?」 「そう。」 「俺、保険かけられていたのか。受取人はおふくろ?」 「殺人事件みたいに言うなよ。」宏樹が笑った。「病院にこのフォーマットの診断書を書いてもらわないといけないらしい。まあ、退院の時に窓口に言えば良いはずだし、その時は俺がいるから。」  和樹はチラリと宏樹を見た。その視線に気づいた宏樹がなんだ?と言わんばかりに小首を傾げた。 「兄貴、入院したことあったっけ。」 「あるよ、ここ、怪我した時。」宏樹は耳の下を指差す。かすかに傷跡が残っていた。「高校の時、部活でここ切って、すごく出血したんだよなぁ。あと2センチずれたら頸動脈でやばかったって言われたよ。縫って、念のため入院した。一泊入院だったけど。おまえ、それも覚えてない?」 「覚えてない。だってヒロ、いつもどこか怪我してたし。……その時にも、こういうのあった? 入院セットとか、保険の手続きとか。」 「どうかな。学校から直接病院担ぎ込まれてバタバタだったから、それどころじゃなかったんじゃないか? 保険のことは、おふくろは何かしてたかもしれないけど、俺には分からん。」 「そういうのって、いつ覚えるのかな。」 「え?」 「入院の手続きとか、保険とか。高卒で就職して一人立ちする人だって、親が早くに死んじゃった人だっているだろ。そういう人って、どうやって知るんだろ、そういうの。学校じゃ教わらないのに。」 「どうなんだろうなあ。」宏樹は斜め上を見上げて考える。「やっぱり今回のおまえみたいに、自分や身内が入院するとか、あるいは災害や事故とか、そういう差し迫った場面に直面して調べる人が多いんじゃないかな。そうじゃなければ、就職とか結婚とか人生の節目。何でもない時に保険のことを考えたりは、あんまりしないよな。」 「そっか。」 「何、カズ、どうかしたのか。」 「いや、別に。」和樹は一通り確認した入院セットを、再びに元のバッグに戻す作業を始めた。きちんとすべて収まっていたはずなのに、どうにも入りきらない。宏樹がパジャマやタオル類を取り出して、きれいに畳み直すと、今度はきちんと収まった。和樹はため息をつく。 「どうしたんだよ、さっきから。」と宏樹。 「俺、何も知らないし、何もできないなあって。」そこまで言って、少し眩暈がした。「なんかふらつくから、横になる。」和樹はずるずると這うようにしてベッドに行き、横たわった。食べていない上に、あまり眠れていないところに来て、久々に起き上がったせいだろう。 「そんなことないだろ。結構まともに暮らしてるようだし。」宏樹は部屋を見回した。「涼矢も言ってた。案外ちゃんとしてるって。」 「あいつが?」ベッドに横たわったまま、和樹が言った。 「カレーぐらいは自分で作って食べてるって聞いた。それにさっきの話だと学校もきちんと行ってるようだしな。充分しっかりやれてると思うけどな。」 「合格?」 「合格、合格。18ならそんなもんだろう。」 「19だよ。先月、19になった。」 「あ、そうか、悪い。誕生日、何もしてやってないな。」 「いいよ、別に。今までの誕生日だって何もしてないだろ。」 「電話ぐらい……って、別に俺の声聞いたって仕方ないか。」 「うん。聞きたくないね。」和樹は笑った。笑うと少々お腹に響いて痛い。 「涼矢からはなんかあったの。」 「電話くれた。」 「それはいいんだ?」宏樹が笑う。 「うん。」そう言って笑い、また痛むお腹をさする。「でも、会うのはまだ先になりそう。」  それに気づいた宏樹が「痛いのか?」と尋ねる。 「少しね。」 「早めに病院行くか?」 「大丈夫。笑うと痛むだけ。」 「それならいいけど、ひどくなる前に言えよ。……それにしても、彼もよく頑張るね。」

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