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第546話 白い壁と青い窓 (9)

 その時、閉めておいたカーテンの向こうから「すみません」という声が聞こえた。宏樹がスツールから立ち上がり、カーテンを少し開けた。 「隣のベッドの者ですが。」そう名乗るのは、しかし年配の女性で、およそ入院患者には見えない。外を歩くのと同じような服装をしているし、化粧だってばっちりだ。そもそも男性ばかりのこの病室に女性の患者がいるはずがない。つまりは「隣のベッドの患者の"妻"」なのだろう。「話し声が聞こえたので、起きていらっしゃるかと思って。良かったら、これどうぞ。お見舞いにいただいたんですけど、食べきれないので。」差し出してきたのは個包装の和菓子だ。饅頭か、最中かといったサイズのものが2個。 「あ、すみません。ありがとうございます。」宏樹はそれを受け取りながら、大きな体を曲げて頭をちょこんと下げた。 「今日入院したのよね。」すぐに立ち去るかと思った女性は、話を続けた。しかも、2人とも若いことが見て取れたからか口調も砕けている。 「はい、今日入院で、さっき手術。」宏樹が答えた。 「あら、じゃあ、悪かったかしら。食べられないわよね。」 「明日には普通食になるみたいだから、明日か、明後日にいただきます。」 「そう? それなら良かった、3日ぐらいは大丈夫だと思うわ。」女性は既に宏樹に渡した菓子に手を伸ばし、ひっくり返した。「うん、大丈夫。今週いっぱい持つみたい。」その言葉で、消費期限を確認したことを知る。それから和樹と宏樹を見比べた。「お父さん……ではないわよね、お若いもの。弟さん?」 「ああ、はい。」宏樹は苦笑いをした。似てないから兄弟と言って驚かれることは多々ある。そこを当ててくれたのは良いけれど、親子と間違えられたのではさすがにショックだろう。 「親御さんは?」 「遠方におりますので、代わりに僕が手伝いに来ました。」 「偉いわねえ。」幼い子に話しかけるように女性が言う。 「そちらは、ご主人ですか?」 「ええ、そう。」女性は隣のベッドに目を向けたが、間仕切りのカーテンがあるから見えない。「でも、明日の検査で問題なかったら退院なの。」 「良かったですね。」 「もっと入院してくれていいくらいなんだけどね。」女性は小声でそう言った。「もう定年してて、ずっと家にいるのよ。それで何もしないでしょう、やれお茶淹れろ、新聞持ってこいって、うるさいんだから。」 「はあ。」 「うちにも息子がいるけど、嫁の実家の近くに住んじゃって、全然寄りつかないし。娘は逆に30過ぎても結婚もしないで、仕事ばかりしているの。明日だってね、お父さん退院だから荷物持ちだけでもいいから手伝ってって娘に頼んだら、仕事だから無理、お金あげるからタクシーで帰ってくればいい、なんて言うのよ。お金の問題じゃないわよねえ、そういうことが分からないのよ。私の育て方が悪かったのかしら。」  隣から咳払いが聞こえた。女性は慌てた様子で「では、弟さん、お大事にね。」と言い、戻って行った。  結局一言もしゃべることのなかった和樹は、憐れむように宏樹を見た。宏樹は笑って「慣れてる。」と言った。 「お母さん方で?」 「そう。母親にもいるし、たまに代わりにおばあちゃんが来る家もあるし。」宏樹は和樹にしか聞こえない声で言う。居酒屋で、久家が塾や先生といった単語を出すなと言っていたが、宏樹もまたそういったことに神経を使っているのだろうか、などと和樹は思う。 「仕事、大変?」 「大変。でも、楽しいよ。そういや、おまえも一応先生のはしくれなんだろ? そっちはどうなんだよ。」 「俺のは、ただ、勉強教えるだけだから。保護者対応とか、生活指導とかないし。」 「教えるだけったって、大変は大変だろう。しょっちゅう言われるよ、塾や予備校のほうが教え方がうまい、学校だけじゃ大学に行ける気がしないって。塾に否定的な人もいるけど、俺はそうでもない。向き不向きがあって、塾のほうが学力が伸びる子は確実にいると思うよ。目的が違うんだから当たり前だ。テレビに出てるだろ、予備校のカリスマ講師とか。ああいう人のテクニックとかパフォーマンスとか、やっぱりすごいと思うことも多いしな。」 「そうだね。……俺は全然そのレベルになってないけど。ベテランの先生たちは、きっともっと大変で、そんで、きっともっと楽しいんだろうなって思う。」  宏樹は和樹をじっと見る。その視線に気づいて、和樹は「何?」と言った。 「それはやっぱり、彼のおかげなんかな。それとも一人暮らしのおかげか。」 「はい?」 「おまえ、悪いこともしなかったけど、かといってこう、自発的に手を挙げて学級委員をやるようなこともなかったろ? どちらかというと、楽なほうを選ぶっていうか。いよいよやらなくちゃだめだって時にはやるけど、それまでは後回しにするところがあった。」 「……まあね。」 「要領いいっちゃいいんだろうけど、俺は少し、もったいないって思ってたからさ。やれる機会があるのにやらないっていうのは。」 「だって面倒くさいし。」兄貴と比較されるのも嫌だったし、というのは心の中にしまった。

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