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第547話 白い壁と青い窓 (10)

「でも、今は、ベテランの先生を見て、大変だけど楽しそうって思うんだよな?」 「うん。」 「それはやっぱり、涼矢が司法試験目指して頑張ってるところを見てるからじゃないの?」 「兄貴があいつの何を知ってんだよ。」 「またそういう可愛げのないことを言う。」宏樹は和樹の布団の端を軽くパンチするような仕草をした。「彼が努力家だってのは少し見りゃわかる。話せばもっと分かる。」 「……もう少し手抜きすりゃいいのにって思うよ。」 「融通は利かなそうだな。」 「それは俺のほうが得意。」和樹は笑った。痛みが走った。「あ、麻酔切れてきたかも。」 「良いコンビだな。」 「カップルだけど。」 「……。」宏樹は複雑な表情を浮かべた。「すまんな、まだそういう時に上手く返せない。」  眉を八の字にして、本当に申し訳なさそうにする宏樹を見て、和樹は思わずまた笑ってしまう。「そう言えば、前に言ってた生徒さんはどうなったの?」  宏樹の担任するクラスの生徒。勝手に涼矢と重ね、不用意な言葉を放って涼矢を傷つけた宏樹。和樹は今でもそのことを完全に許したわけではない。だが、その「生徒」のことは気になった。 「特に進捗があったわけではないけど、少し明るくなった気がするんだ。誰か打ち明けられる相手でもできたかな。今はインターネットがあるし、必ずしも家族やリアルな友達や……ましてや教師なんてあてにしなくても解決できることはあるんだろう。彼がそれで少しでも安心して高校生活が送れるなら、それが一番だ。」 「ふうん。それならまあ、良かったんじゃない。」 「あの時は悪かったよ。おまえにも、彼にも。」 「いや、それはまあ……こっちも。」元は言えば、宏樹の部屋で半裸で抱き合っていたのが発端だ。宏樹の不用意な発言を責めるなら、こちらのしたことだって配慮の足りない行動だったと思う。「兄貴はいないの、彼女。」 「なんだよ、急に。」 「マネージャーとつきあってたよね、大学の時。」 「それはもう、とっくに。その後、別の子とつきあったけど……あれ、おまえ、この話、涼矢から聞いてないのか?」 「この話って、兄貴の彼女の話? 何も聞いてないけど。」  宏樹は顎に手を当てて考え込んだ。何か思い出そうとしているらしい。やがて顔を上げた。「ああ、そうか。俺がカズには言うなって言ったせいか。あいつもまた、随分と義理堅い。」 「何か言ったの。」 「あれはえっと……夏、だな。俺、彼女と別れてな。その日に、ヤケ酒でも飲もうと思って入った店が満席で断られて、そこに偶然涼矢とお母さんがいて、なんでだか別の店に3人で行くことになったんだ。」 「ああ、あの、アリスさんの店。」 「そうそう。それで、振られたところだ、なんて話をな。」 「で、口止め?」 「ああ。でも、とっくにバレてるだろうと思ってた。」 「……言わないよ。あいつは、言わない。たぶん、口止めしなくても言わなかった。」 「おまえにバラしたら、兄貴の威厳もへったくれもなくなってかわいそうって思ったのかな。」宏樹が苦笑した。 「違う、そういうんじゃなくて。あいつ、誰かから聞いた話を、勝手に別の誰かに話すの、嫌がるんだ。個人情報っていうか、本人があまり知られたくないだろうなって内容だったら、特に。」 「へえ。……そう聞くと涼矢らしい気もする。」 「うん。そういうとこ、ホントに、あいつらしい。」和樹も苦笑する。 「見舞には来ないのか? 春休みだろう?」 「来ない。俺も来なくていいって言ったし、あいつも兄貴がいるなら安心だって。」 「いいのか?」  和樹は宏樹を見る。「だって実際、来たってすることないし。」 「そりゃそうだけど。こういう時は、心細いとか、心配だとか、あるだろ。」およそそんな繊細な感性など持ち合わせてないかのような外見の宏樹だが、時折こんなことも言う。 「どっちにしろ、兄貴かおふくろには来てもらわなくちゃなんなかったし。」 「そうだな、涼矢にパジャマだのスリッパだの用意してくれって頼むのも変な話だもんな。」 「いや、そうじゃなくて。」和樹はベッド用のテーブルのほうに手を伸ばして、その上の書類に触れようとするが、寝たままでは届きそうになかった。宏樹が訝しそうにしながら、和樹の目当てのクリアファイルを取る。 「これか? 保険の書類。」 「うん。それとか。あと、入院するにも手術するにも、兄貴がサインした書類あるだろ。」 「ああ。」と頷きながら、宏樹はクリアファイルに目を落とす。そして「あっ。」と言った。 「最初は、明叔父さんに頼もうと思った。でも、できれば叔父じゃなくて親がいいって言われた。俺が、兄でもいいですかって言ったら、成人してるならいいって言われて、それで……。」和樹はそこで押し黙る。  宏樹も黙った。  口を開いたのは和樹だ。「涼矢じゃだめなんだ。」 「……そう、だな。」宏樹はそれでも和樹を励ますように言った。「でも、それは、未成年の未婚のカップルならみんな同じだ。」

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