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第551話 白い壁と青い窓 (14)

「いえ。」と言いながら思い出した。確か宏樹が奥さんと話していた時、今朝の検査結果が良ければ今日にも退院すると言っていなかったか。昼食後の退院なのだろうか。しかし、結果が悪くて延期になったのかもしれないと思うと、その件に触れるのは憚られた。 「何の病気?」気遣う和樹とは反対に、男は遠慮なく聞いてくる。 「盲腸です、ただの。」 「そうか。そんなら、いいやな。すぐ退院できんだろ。」 「そうですね。」 「俺はな、腎臓だよ。急に高熱出てさ。おかしいんだよ、最初はぎっくり腰かひどい筋肉痛かと思ってたんだよ。こう、腰とか背中が痛くて痛くて。だから外科に行ったんだ。レントゲン撮ったりしてな。そんなことやってる間にどんどん40度近くになっちまって。血液検査したらこりゃ内臓のどっかが炎症起こしてるって分かって、結局腎臓だった。もう、今日で10日だ。今朝の血液検査でうまくいきゃあ、今日退院なんだけどさ。もうすぐ結果出るはずなんだが、なかなか来ねえな。」  検査結果はまだ出ていないと聞いて、和樹はホッとした。 「高橋さんももうすぐ退院できるんだろう?」男は向かいのベッドにも話しかけた。 「明日の予定です。」 「あなたも長かったよねえ。俺より先にいたもんね。」 「3週間ですね。」高橋と呼ばれた男性はそう答えると、食べ終わった食器を持って、スタスタと歩いて病室を出た。必要最低限の会話以外はしたくなさそうだ。 「あの人なぁ、いつもああなんだよ。」  声を若干ひそめてそう言う隣の男の名を、ベッドについたネームプレートでようやく確認する和樹だった。男は白石という名前のようだ。 「ひとり者なんだろうね、身内が見舞いに来たのを見たことがないよ。同僚だの友人だのはちらほら来てたけどね。うちの女房はやかましいけど、いないとなったら淋しいもんだ。1人じゃ退院してもつまらんよね。」  そんな話題をニヤつきながら話す白石を、和樹は下品だと思った。身内がいてもそれぞれ事情はあるだろう。たとえば俺だって、両親はいても気軽に来られる距離ではないし、親戚の結婚式もあって来られなかった。高橋氏の身内にしても、仕事の都合もあろうし遠方にいる可能性だってある。あるいは白石の入院前に既に見舞っていたかもしれない。――それから、人には言えないような事情だって、あるかもしれない。もしかしたら、白石が同僚か友人かと思いこんでいるうちの誰かが、パートナーなのかもしれない……。  だが、そんなことはおくびにも出さず、和樹は言った。「俺も1人ですよ。」 「あんたはまだ若いだろ。学生さん?」 「はい。」 「若いうちの1人暮らしはいいよ。でも、ある程度の年になりゃあ、やっぱり所帯持ってさ。」白石が言いかけたところで高橋が戻ってきて、白石は「昨日来てたのはお兄さん?」と話題をずらした。 「ええ。両親は遠いし、親戚の結婚式なんかもあったんで。」 「お兄さんは東京(こっち)に?」 「いえ、実家で、親と一緒にいます。」 「仕事休んで、弟のためにわざわざ?」白石は少々意地悪な表情を見せた。今時の若者は軟弱だ。仕事を放って弟の入院に付き添う兄も兄なら、それに甘える弟も。そんなことを考えているに違いなかった。 「仕事は休みなんですよ。あの……教師なので、今は春休みで。」  案の定、白石の顔が打って変わった。「ああ、そう。先生なの。道理で若いのに随分貫禄があって、落ち着いてると思った。」途端に感心したように何度も頷く。だが、「先生は夏休みも長いし、春休みなんてのもあるんだ。休みがたっぷりあっていいね。」などと続けた。それが皮肉なのか単純な羨望なのかは判断できなかった。 「そうですね。でも、部活の顧問なんかやってると土日もつぶれるし、だからといって残業代や休日出勤手当が出るわけじゃないらしいので、そう割の良い仕事でもないみたいですよ。」庇いだてするつもりもなかったけれど、少なくとも宏樹は、良い御身分と揶揄されるほどの好待遇でもないはずで、それでも仕事に対しては真面目に取り組んでいる。それを誤解されるのは不快だった。 「部活ってのは、先生の仕事だろ?」 「いや、厳密には……うーん、まあ、ボランティア活動のようなもので、給料にはほとんど反映されないらしいですよ。」 「へえ、そうなんだ。それはご苦労だね。俺は悪さばっかりして怒られてたクチだから、先生と聞くとビクッとしちまうけどよ。」白石はそう言って笑った。  午後2時からが面会時間だ。2時になると早速宏樹がやってきた。その後ろにもう1人誰かいると思ったら、白石の妻だった。エレベーターで一緒になったのだと言う。 「退院、できないの?」と白石の妻が夫に話しかける。旅行用のような大きなバッグを持っているから、入院中のもろもろの荷物を入れて、退院できる心づもりだったのだろう。 「結果が来ねえんだ。」 「ナースステーションに行ってこようかしら。」と白石夫人が呟くと、ナースが入ってきた。

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