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第552話 白い壁と青い窓 (15)

「白石さん、急患が入っちゃって、連絡遅くなってごめんね。今朝の検査結果出てます。今日退院できるけど、後で先生から詳しい説明があるからそのまま待ってて。」白石夫妻にしてみたら娘のような年頃のナースは、本当の娘のような親し気な口調で話した。 「ああ、よかった。退院できるのね。」と夫人が言う。「もう着替えてもいいのかしら。」とナースに尋ねる。 「えーとね。」ナースは腕時計を確認する。主治医が来る時間を見計らっているのだろう。「うん、大丈夫。後でまた来ますねー。」末尾を言う頃にはもう病室を出ている。 「忙しそう。」と宏樹がぽつりと言った。 「うん。」と和樹が頷いた。「俺も火曜日に退院できないかな。」 「ああ、そのことな、大丈夫だから。」 「え?」 「水曜の出勤は交替してもらった。そのせいで土曜日来るのが遅くなっちゃったんだ。」 「あ、そうだったんだ。それはごめん。」 「いや、そんなのは構わないけどさ。俺も言うの忘れてた、悪い。だから、予定してた金曜日まで大丈夫だ。」 「でも、早いに越したことはないだろう?」 「家で安静にしなきゃならないなら、入院してくれてたほうがいいよ。病人食は出て来るし、何かあった時すぐ対応してもらえるんだから、俺も気楽だ。」 「そう?」 「ああ。」宏樹は小さな声で付け加えた。「その分、保険金も出るから。」 「俺がもらえるわけじゃないんだろ?」 「当たり前だ。」宏樹は笑った。「まあ、だから、いろいろ、心配すんな。」  言われてから気がついた。入院費に、宏樹の交通費。それらは普段の仕送り分に加算されるべき費用だ。もし本当の「1人暮らし」だったら、おちおち入院もできやしないということだ。ふいに哲の顔がよぎる。奨学金を得て、多少は実家からの仕送りもあり、そして住まいは親戚やアリスの世話になっているのだから、1人ですべてを賄っているとは言えないが、しかし、和樹よりずっとシビアな生活をしているはずだった。 「ああ、そうそう。」宏樹は紙袋を持ってきていた。そこから紙箱が出てきて、宏樹は自分でそれを開けた。「昨日、お隣の方にいただいたからな。」そう言うと宏樹は立ち上がり、白石のベッドのほうを向いた。が、着替えのためかカーテンが締め切られているのを見ると、向かいの高橋のほうへと方向転換した。 「明日退院なので、いいですよ。僕のほうからは何も差し上げていないし。」と高橋は言う。 「じゃあ、ひとつだけ。」と宏樹は箱から個包装の菓子を取り出し、高橋に押し付けるように渡した。 「あ、これ、僕の好きなやつだ。」と高橋が笑った。 「そしたら、もうひとつ。」宏樹が追加すると、今度は素直に受け取った。 「ありがとう。ええと、これどうぞ。使いかけで悪いけど、ほとんど使っていないから。」高橋はテレビカードを差し出した。「こんなものしかなかった、ごめん。」無愛想に見えた高橋だが、照れ笑いをすると案外と人懐こい表情になる。 「いえ、助かります。」と宏樹はぺこりとお辞儀をした。そうこうするうちに白石の着替えが終わった様子だったので、宏樹は白石のベッドに向かう。 「あらあらまあ、そんなのいいのに。」と白石の妻が言う。 「この後すぐ退院するしな。」と白石が言う。 「でも、わざわざ持ってきていただいたしねえ、いただいちゃおうかしら。」妻が言う。 「ええ、どうぞどうぞ。」宏樹は箱ごと渡す勢いで白石の妻に菓子を差し出す。 「じゃあ、2つ、いい?」 「もっとどうぞ。」 「そうお? じゃ、もう2つ。」悪戯が見つかったこどものような顔で、白石の妻は笑った。 「図々しいな。」と白石が苦笑した。「ダイエットしてたんじゃないのか。」 「またそういうこと人の前で言うんだから。」そう言いながら、白石の妻はバッグからきれいなハンカチを出して広げ、宏樹からの菓子を4つ並べると風呂敷で包むようにして、再びバッグにしまった。そんな仕草に、どうしてだか母親の恵を重ねる和樹だった。もしかしたら宏樹もそうかもしれないな、と思う。恵がそんな風に風呂敷で何かを包む姿など見覚えはない。それなのにどうしてそんなことを思うのだろう、とも。  宏樹の持ってきた菓子はそれでちょうど半分なくなった。 「ここに置いておくから、誰か来たらあげなよ。おまえが食ってもいいけど。」と宏樹は言い、菓子の箱をサイドテーブルに置いた。 「うん。ありがと。……これ、わざわざ家のほうで買ってきてあったんだ? 用意がいいな。」宏樹が持ってきたのは地元の菓子だ。 「いや。」宏樹は声を落とす。「東京駅にさ、あるんだよ。有名どころの地方銘菓がいろいろ売ってるとこ。」 「なあんだ。」 「でも、わざわざ今日の午前中に行ったんだぞ、東京駅まで。」 「ご苦労さん。」 「ま、東京土産も買ったけど。というか、それがメインだな。」宏樹が笑った。 「気が早い。帰りがけに買えばいいのに。」 「そういうことって慌ただしいと忘れちゃうからな。時間ある時に片付けておかないと。」 「それ、分かっちゃいるけど、なかなかできないねえ。」

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